Moella occidentalis - nomen Latinum (aliud, Europaeum, Pseudo-Europea Pseuro.) - IPA - dim.Eng. (i.e. Deminutivum Anglicum)
 M.o. 20180325a nominatur Gerenda /ge.ren.da/ (f. gerundive of v. gero), dim.Eng. Gery /ˈdʒə.ɻi/
 M.o. 20180325b nominatur Delicia /de.li.ki.a, de.li.tʃi.a, de.liː.ʃa/, Pseuro. Delicephala /dɛ.lɪ.tʃe.faː.lə/ (delic- + cephale), dim.Eng. Dely /ˈdɛ.li/
 M.o. 20181117 nominatur
 M.o. XX nominatur Penelope /peː.neˈlo.peː/ (gr: Pēnelópē Πηνελόπη), dim.Eng. Penny /ˈpɛ.ni/
 M.o. XX nominatur Adriana /a.dri.aː.na/, dim.Eng. Ana /ˈæ.nə/
 M.o. XX nominatur Berenice /be.reˈniː.keː/ (Veronica), dim.Eng. Benny /ˈbɛ.ni/
 M.o. XX nominatur Beatrix /be.ˈaː.triː.ks/ (from Viatrix, sa: vyātṛkā व्यातृका vi + √i guna + -tṛ + -ka f.)
 M.o. XX nominatur Viveca (sa: vivekā विवेका), dim.Eng. Vivy /ˈvi.vi/
 M.o. XX nominatur Matilda /maˈtil.da/, dim.Eng. Mattie /ˈmæ.ti/
 M.o. 20190829 nominatur Marguerite /maʁ.ɡə.ʁit/, dim.Eng. Peggy Maggie /ˈmæɡi/ *Marguerite de Charlvoix /ʃarlvwa/, alt. Catherine de Chartreuse /ʃartrøz/

res contrastanda alia: https://en.wikipedia.org/wiki/Category:Feminine_given_names



萌えの典籍の一部を新記事として整理中…

萌え曼荼羅
2016年7月31日に人物・風景の線画を紙に描いた・全身verアリ

萌相曼荼羅"Śubhamaṇḍala"・・・人物と背景がセットの萌え絵を三身具足萌尊が顕したときに名付けるもの、上掲は横野真史によるイメージ
無垢莊嚴萌土曼荼羅(vimalavyūha moye-kṣetra maṇḍala?)・讃文「顏相爲柔和端正、及在土、是依正不二也。好色萌相者、能令心踊而與靜。有玄妙之德、不可思議矣。讃萌語云。有萌色因觀萌緣。因因緣所生萌心、滅瞋恚人毒。減男子婬欲、除女子嫉妬。觀萌、有令男女人離一往著之利益。識萬物萌色者、有生平等慈悲之功德。但、思過猶不及。寧過慈心而起愛著。余、増惱愛著。當勤修斷著。」



清浄萌土抄 "Śuddhā-Moye (shuddha-moe) Land" 草案(2016年10月18日ころ)
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http://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2016.html#sms

養萌頌
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http://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2016.html#sms-ymj



萌え曼荼羅

1 ko rahuh

尊者名義談
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http://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2017.html#smd



街にいる子の話 イメージ音楽→http://www.youtube.com/watch?v=A_93d_RwunQ

萌集記
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説法十箇の案

(八) 輸提尼ないし諸萌の相について知った街女人へ (七よりも前の話と想定)
世間の物質的な営みによって化生の衆生=諸天善神や諸仏・諸菩薩や世間の架空キャラクターおよび芸術的に視覚化された像や絵が「妄想」と価値判断されるに過ぎない。
仏教でいう「妄想(もうぞう)」は、かえって欲望や嫌悪感に支配された人間(知能と精神とを有する存在"Homo sapiens"=全人類)によってなされる全ての思考活動を総括している。
維摩経弟子品の「妄想無きは即ち罪無し@(サンスクリット原語など)」を鑑みる。
仏教徒は仏教徒の「苦集滅道(四諦)」、「解脱・成仏などといった目的性」に沿ってそういった「妄想(もうぞう)」を定義する。
何となれば、それが旅をする者の杖や羅針盤のように、仏道を行く者の心の中で用いられるからである。

「暇(ひま)」という言葉も、世間の物質的な営みに囚われた人々が、差別的に物事を計った結果に用いられるにすぎない。
そうであるとき、誰かしら芸術分野についても「暇だからやる」とか「金になりそうだからやる」などといった動機でなされる分野だと価値判断する。
絵を描くことも、楽器演奏をすることも、楽曲を作ることも、文芸を作ることも、それらを人々が「生産的でない=物質的な意味で世間の役に立たない=暇人のすること(しごと・しわざ・所行・所業"Karma, Opera, Opus, Work")」と価値判断する。
各種技芸の技能が高い時、世間での金銭を多く受けるに値するものともなるが、それを本位にすることを私は志向しない。



(九) 日本の国民や行政について時々不快に思う街女人へ
先に外国人同士の喧嘩や日本人と外国人とが喧嘩しているところを巧みに日本語・英語を用いて調伏し、街女人が慨嘆するので拾主が還って説法を与う

精神においては言葉が国の領域*1を示す。
例えば、インターネットという代物はワンクリックで世界中のサイトに行かせるのに、ある利用者がその人の解せない言語であると思うと、その言語のサイトを利用したくないであろう*1。
国境なき国境であり、潜在的国境の顕在化である。
そのように、言葉が国の領域を示し、現代はなおさらであると観てほしい。
そのほか、例えば、一神教の旧約聖書にも、戦闘で勝利した民族が、敗北した民族のうちの逃げようとする者を境界の川で監視し、川を渡る者に特殊な発音を試させ、敗北した民族の発音の者を殺したという話がある*2。
そのほか、現代、カスピ海と黒海とに挟まれた「コーカサス」という地域には小さい国が3~6つ存在する*3が、みな1990年代までは旧ソ連の領土であった。
コーカサスの国のうち、アルメニアは印欧語族・アルメニア文字、アゼルバイジャンはテュルク語族・ラテン文字かペルシャ文字、グルジア(ジョージア)は南コーカサス語族・グルジア文字の言語を用い、みな民族・言語・文字・信仰の意識に乖離が大きい。
アルメニア系の人(ハイ)であれ、アゼルバイジャン系の人であれ、グルジア系の人(カルトヴェリ)であれ、みな直近2000年以内に幾度と民族の集合と離散とを経験しているが、彼らには異なる言語や信仰があったから、今も民族のアイデンティティを保って住み分けをする。
アゼルバイジャン領だったナゴルノ・カラバフはアルメニア人=アルメニア語話者が多かったので、アゼルバイジャン人=言語の異なるであろう民族を追い出して「アルツァフ」としての独立性を得ている*4。
このように、言語は国を実際の意味で分けることもできた。

さて、現今の日本国とその国民に悩ましさを感じる者のために法を説こう。
悪しき言葉を用いる者が多い言語*5は、悪しき者が多い国である。
善神*5はその国を去り、賢人や聖人はその国を離れる。
よく考察されずに発せられた言葉、それは自他の心の禍(わざわい)を作る。
現代の世界で多く聴かれる英語に、"shit, stupid, idiot, f*ck, f*ckingナンタラ"等の卑語や諸々の侮蔑表現があることに劣るものは、それである。
他を害しようと発せられた言葉、それは本(もと)より賢人や聖人に用いられない。
なぜならば、それを発する心=他を害しようとする心が、必ず自ら害する禍を作るからである。
何であれ、悪しき言葉を用いる者が多い言語=悪しき者が多い国を、善神は捨て去り、その国を賢人や聖人は離れる。
例えば、世間での金持ち・富裕層が高税や言論不自由に不満を感じて彼の住む国を出て行くことがあろう。
それは飽くまでも例えて言う、譬喩である。
私はかつて*6、古代日本語・漢語・英語・梵語・ラテン語・ヘブライ語*6などの言語を介することで、精神的に異国へ避難していた。
その時の私は日本語に表象された日本国民の悪しき側面を多く見たので、言語の翼を伴って色々な時代や国を見て回った。
そして、古い和歌や、漢詩や、梵語の偈やさまざまな歌を見て「実にそれらは、現代日本の悪しきものに異なり、それに比して優れているようだ」と感じた。
この私が「肉体の身が現代日本にありながら往古や遠い諸国を遊んで学ぶ」という、そのような*7者となった。

菩薩は現世の身のままでも、天国や地獄を見て回る。
菩薩による地獄めぐりのお経*がある。
菩薩は現世の身のままでも、さまざまな仏国土に往生する。
阿弥陀仏となる前の法蔵菩薩*はそうであった。
我々は現世における経験やプラマーナ"pramāṇa"を、多かれ少なかれ、生まれて10~20年で必要相当に持っており、その上で生老病死の苦を分別できる。
インターネットを利用する者は、そのプラマーナが十分にあるため、諸外国に行って何かを学びたければインターネットの情報を適切に用いることで可である。
その意志による行動には「インドア・アウトドア」といった二分概念が通用しない。
世間に聞かれる「五感で楽しむ」とか「体感する」とかといった言葉は旅行業・遊興振興の宣伝文句であり、既に問題外である*。
また、多くの人の目的性は、外交官になることでも国際的な商社に勤めることでもない。
意志のある当人が可能ならばインターネットで諸外国における何かを学べぶか、より金銭と体力とを費やす行い方をやりたければそうすればよい。
*…「天国や地獄を見て回る」とは、一般的で直感的な言い方である。天国・天界や地獄・地獄界に限らず、究極的には人間が認識する全ての場面を見て回る力を指す。餓鬼界を対象とした例を挙げると、釈尊の大弟子である舎利弗尊者らの「餓鬼事経(パーリ経蔵・小部由日語文言文)」、目連尊者の「盂蘭盆経(漢訳)」などの話が関連する。次に拾主が例示する「お経」は、「大乗蓮華宝達菩薩問答報応沙門経(大正蔵14巻 No. 441 = 仏説仏名経所収。三十巻あるその仏名経の各巻ごとに大乗蓮華宝達菩薩問答報応沙門経が一つの地獄を説く形で載る)」あたりであろうか。これは馬頭羅刹経とも呼ばれており、漢訳のみがある、というよりは、中国撰述経典として伝統的にみなされている(巻第一に馬頭羅刹僞經や凡俗鄙語雜於聖言や刪去寶達僞經と載る文は後世の人による注釈で偽経説を示す)。余談だが、キリスト教界隈でもダンテの「神曲(現代イタリア語に繋がるイタリア系言語トスカーナ方言で最初の文献)」が「大乗蓮華宝達菩薩問答報応沙門経」に似ているかもしれない。
*…無量寿経=スカーヴァティー・ヴィユーハ系の経典による。それは世自在王仏(lokeśvararāja, 世饒王とも)の仏国土の一王国の王であった人物が、出家して法蔵(dhrmākara, 法宝蔵とも)と名のる比丘であった時の話である。比丘ではあるが、菩薩としての志し・願いを持ち合わせていた。法蔵菩薩は彼の師たる世自在王仏より数多く(経文: 二百一十億or二十一億or八十四百千倶胝那由他or koṭīniyutaśatasahasrā)の仏国土の天と人との善悪や、国土の美醜(麁妙)を説かれた。仏国土がいかなるものかを認識して彼は「五劫思惟」の後に「清浄の行」を摂取/成就した。それを宣言すると、世自在王仏より「汝の本願を衆に解説(げせつ)せよ」と勧められたので、彼の本願(二十四願or四十八願or 梵本に46)が示された。その後に彼は成道して阿弥陀仏となる。ほか、菩薩が仏国土を往生して様々な仏に値って学ぶという教義とその概説は維摩経・般舟三昧経・法華経などに出る。
*…そのような当世の日本人が「日本は島国(insular)・閉鎖的・鎖国・引き籠り」という前提で「日本人は視野が狭い(英語insularにも類義あり)・人間性が低い」などと自虐するならば、それは誤った論理であり、発せられた言葉は穢れている。日本列島を出ないことなどの物理的要因と、「視野の広さ・人間の高尚さ」はほとんど関連しない。それは「早計な一般化」を個人の脳内でしているのみで、何ら統計学的証拠が無い。たとえそれが有っても、行為と目的とは十人十色であることが人権的に肯定される。何のために・何を目的として、或る国の鎖国とされる政策(鎖国"Sakoku"自体が歴史学的に疑問がある。他にも人種の分離などコーカサス諸国の例に見る通り世界史・現代史に数多くある。徳川幕府に限っても彼らが西洋人と交流した経験・知見でその政策がある)や、或る人の引き籠りという行為が有るか、発言者の人間性が低いから、その理由が分かっていないのみである。発言者が現代日本人に反省を促す慈悲のつもりでも、「鎖国・引き籠り」を引き合いに出すことは不適切である。旧来の思考に拘泥して無反省な発言者たちが、最も悪しき者である。世界"the world"を照らす太陽を遮らんとする悪魔である。彼らの悪しき量りによる言葉は彼ら自身に帰することを、一生知ることは無いが、仏・菩薩以外はあえて彼らに知らせる必要も無い。「引き籠り(ひきこもり・引きこもり Hikikomori)」は社会的形態を持つ実在人物なので、「悪いものの譬喩」にヒューマニズム・人道的観点で用いてはならない(ユダヤ人とかチョン・朝鮮人とか同和・部落とか池沼・知的障害とかと同じこと)。2012年以降、日本自身(themselves 国内のみ通用)を指す言葉に「ガラパゴス」が定着しつつある。

しかし、善神や賢人や聖人という、その国を去る・辞する者たちのうち、聖人と呼ばれるべき者のみは、率先して本の国に帰る=本の言語を尊ぶようになる。
なぜならば、一切の言語はみな寂滅であってその価値が平等(雅語と俗語と善語と悪語との不二)でありながら、その人はその人の母語を有している(母語と異語との而二)からである。
結局、母語の国において清浄の行をなし、その国土を浄めねば、聖人たりえない。
また、現代であれば、語学的努力によって母語と異語との区別を滅して全世界を一つの国となし、そこにおいて清浄の行をなすことも可である。
私はかつて、古代日本語・漢語・英語・梵語・ラテン語・ヘブライ語などの言語を介することで、精神的に異国へ避難していたが、今は現代日本語の土地・日本国へ帰っている。
現代の世界で多く聴かれる英語に、"shit, stupid, idiot, f*ck, f*ckingナンタラ"等があることに劣らない言葉遣いは、どの時代や文明でも見られた。
所詮はいかなる言語も、人の用いる言語の、人が用いるという性質において差別が無い。
つまり、古代日本語・漢語・英語・梵語・ラテン語・ヘブライ語ほかいかなる古代言語・古典語・聖典語・雅語を見聞するとも、言語への執着を離れねば自己の清浄を得ず、母語を用いねばその結果を得る手段さえもなされない*8。
結果的に私は日本語に表象された国の領域=日本国において清浄の行をなさんと発願した。
漢語や梵語や西洋言語などを華の装いとして用いる。

【歌】
「うぶすなの ことのはわろく もちゐれば うぢがみさりて おにさだまらむ (産土の 言の葉悪く 用ゐれば 氏神去りて 鬼定まらむ)」
「うぶすなの ことのはまさに きよむべし うぢがみとみに かれをまもらむ (産土の 言の葉應に 淨むべし 氏神頓に 彼を護らむ)」*p1
「さきはひの ことだまくにに ありぬべし かくてわざはひ ひとびとは つねにつくれり いづくにか まことのやまと あるともとめき (幸ひの 言霊國に 有りぬべし 斯くて禍ひ 常に作れり 何處にか まことの大和 有ると求めき)」*p2

【詩】*p3-4
I entreat Maha-vira thus.
How we get Aryan-blood for us?
He is Aryan, who don't anger.
He is Aryan, who use mild words.
Neither jati, nor skin's colors.

 拾主は尊者の方を向いて一言をお与えになった。「ちなみに、鎌倉時代の日本では『末法』の歴史観にならって『善神捨国』が説かれたが、これは別の理解を要するので、後で私がしっかりと教えてあげよう*」

*1…一般的な「国(國)」という言葉は、英語でいう"country (地理的 land)"と"nation (複合的)"と"state (政治的)"で表示される様々な概念を含んでいる。先に人々が国土を決め、国土ごとに文明が発達した後の政治が国土を決めることもあるなど、大概は双方向であるので、ここで問題外である。仮に政治的国土や国家に国の概念を託しても、当人の日常生活や思考において常に支持されてはいない。現代人はその自覚が低くて「いつも政治や科学という合理的な基準に依拠している」という錯覚を持つ傾向にあるが、決してそうでない。所詮、国とは当人の知能・精神(心)に決められる。拾主は、ここでスキーマ的"schematic"な国=知能・精神における国・ふるさとを闡明している。そこから、自国(という名の当人が取った一面)を好く・嫌う、他国(という名の当人が取った一面)を好く・嫌うといった好き嫌いの問題を説明できるようになる。
*1…「よほどの理由や目的や解決策を持たない限り」、その人はその言語のサイトを利用したくないであろう。解決策としてはブラウザの翻訳機能を用いるか、サイト全体翻訳サイトを用いるか、となろう。この解決策は暫定的である。いわば「言語の差という名の国境」を暫定的に通り抜けられるパスポートか、一時的な滞在のための手続きをするようなものである。
*2…いわゆる「シボレス"Shibboleth" (原語・ヘブライ語の学問的な翻字は šib·bō·leṯ)」。その語は士師記(Book of Judges) 12:6に出る。敗戦民族側の発音は「スィボレス"Sibboleth" (sib·bō·leṯ)」として、後部歯茎摩擦音[ʃ]と歯茎摩擦音[s]との異なりがある。シとスィという二者は、ヘブライ文字で「ש(Shin)」と「ס(Samekh)」である。前者は現代に、点を右上に付して שׁ ‬シ発音、左上に付して שׂ スィ発音に分けることもできる。この種の伝承に懐疑的な人に告ぐ。伝承が直接に事実を書かなかったとしても、同様のことが往古より行われてきた事実は存在することが推量できる。あるいは、何らかの歴史的事実に比較できる。
*3…2018年現在のコーカサス(カフカース、カフカス)地域で、広く承認された独立国としてアルメニア"Armenia"、アゼルバイジャン"Azerbaijan"、ジョージア"Georgia"が挙げられる。日本政府に承認されないものとしてアルツァフ"Artsakh"とアブハジア"Abkhazia"と南オセチア"South Osettia"が挙げられる。これらはコーカサス山脈の南に位置し、南コーカサス(ロシア語"Закавказье" ザカフカジエ、カフカスの山のあなた)とも総称される。みな単一の国家として見れば、共和制である。6つの国の領域を総合しても、カスピ海対岸のトルクメニスタンの国土にスッポリと収まりそうなほど、狭い土地に密集している(面積にして約186,100平方キロメートルと数字上は本州・朝鮮半島・グレートブリテン島よりも小さい)。それら国々の簡単な特徴について、直後に拾主が説いた。説明すると煩瑣になることは、すぐ傍にあるトルコ語地域・クルド語地域・ペルシャ語地域・現在ロシア連邦に属する北コーカサス地域にも様々な特色を見出せることである。それらのうちのクルディスタンやチェチェンに関する現代史で、推して知るべきである。なお、過去のコーカサスにはイベリア"Iberia Ἰβηρία"やアルバニア"Albania Ἀλβανία"というラテン語・ギリシャ語名(外名 exonym)を持つ王国もあったが、当然、現代のイベリア半島やアルバニア共和国とは不干渉で発生した名である。
*4…類例がある。現在でも独立性が低いアゼルバイジャン領のナヒチェヴァン自治共和国は、アゼルバイジャン本土に面しない・アルメニアとトルコとイランとによって囲まれた飛び地であるが、ソ連崩壊のころのアルメニア - アゼルバイジャン間の闘争においてアルメニア人=言語の異なるであろう民族が追い出された。闘争以前にナヒチェヴァンのアルメニア人が2,000人ほどいたとして、2009年の統計によればナヒチェヴァンに住んでいるアルメニア人は6人にまで減っている(主題を理解しやすく例示することが目的なので例示された統計に関する細かい検証までをしない)。
*5…コトバ(言葉)は"words"のことだが、ここでは先の話を受けてゲンゴ(言語)"language"と言う。コトバ"words"は知能・精神における概念・認識された事物と結びついた「表示」であり、ゲンゴ"language"は表示の客観的な形式である。一つの概念に複数のゲンゴのコトバが関することもあるが、そういった意味で客観的な日本語・英語=母語・異語は存在しない(概念と結びついたコトバ"words"が異語の形式で先に個人に定義されることもある)。
*5…善神は「ぜんじん(鼻音連濁や呉音の濁音による)」と読むが、口頭では善人(ぜんにん、漢音ぜんじん)と紛らわしいし、後続の「賢人(けんじん)・聖人(しょうにん、漢音せいじん)」が「人(じん)」の認識を強めかねない。よって、拾主の口頭では一般的日本語感覚を配慮して「善いことをする神々(かみがみ)」と言い足すであろう。
*6…「かつて」という言葉は、記憶回想のみならず、発言者の生きていない歴史上の情報にも用いられる。そのため、とても時間が前の情報を指すという先入観を与える。拾主は過去世の語りべでもあるから、ここで過去世の話をしているとも思える。しかし、ここでは世俗的に見ると比較的短時間の数年前程度(障礙尊者と現世で出会っていない時)である。言葉を感情や世俗の数字感覚で安易に量り得ない。短い期間と思われても、量り難き深み"depth"がある。
*6…これらはほとんど系統の異なる言語であると言語学的に言われるが、語彙の類似性も多い(ヘブライ語以外)。語族・語派は順に「日本語族、漢蔵(シナ・チベット)語族シナ語派、印欧(インド・ヨーロッパ)語族ゲルマン語派、印欧語族インド・イラン語派、印欧語族イタリック語派、アフロ・アジア語族セム語派」である。ほぼユーラシア大陸・旧世界が本土(一応の原郷"Urheimat")である。他にも拾主は様々な言語を用いてきたが、代表的にこれらを挙げた。これらの言語は国や地域自体を表象するものとして拾主は説く。言語を用いることが翼であるともいう。入国許可証のようでもある。
*7…「という、そのような」という表現はラテン語"ita, ut (日本語に合わせればut, itaの順)"や、英語"as, so"のような副詞・接続詞の相関文を想定する。梵語(サンスクリット・パーリ語)では"iti, eva"か"iti, eta"か"yathā, tathā"によって構成できる。
*8…中論24章10偈「若し俗諦に依らざれば第一義を得ず。第一義を得ざれば則ち涅槃を得ず。(若不依俗諦・不得第一義・不得第一義・則不得涅槃)」に依った表現。ただし、拾主の表現は話の脈絡に合うもので、中論24章10偈の前2句・後2句と順が逆になる。
*…明恵上人の摧邪輪や日蓮大聖人の立正安国論・守護国家論などを指す。それらの善神捨国説については、現代の仏教学的見地だと当時の世相に基づいた方便のように捉えられがちである。前者は華厳経の立場で菩提心を軽視する法然専修念仏を破する上で「邪正雑乱(じゃしょうぞうらん)の念仏が国を乱し、大邪見が念仏者自身の往生を妨げてその師弟ともに地獄に落ちる」ということを説いている。後者は法華経の立場で権実雑乱(ごんじつぞうらん)の仏法を主に破(は)するために開会・開権顕実として金光明経や仁王経や大集経を引いている。右記は大正蔵所収の立正安国論より引用された金光明経・大集経だが、同じ大正蔵には金光明最勝王経(N. 0665, V. 16 p. 429 c段から)大方等大集経(N. 397, V. 13, p. 379 b段から)で同様の文が見られる。「金光明経云: 於其國土。雖有此經未嘗流布。生捨離心不樂聽聞。亦不供養尊重讃歎。見四部衆持經之人。亦復不能尊重乃至供養。遂令我等及餘眷屬無量諸天。不得聞此甚深妙法。背甘露味失正法流。無有威光及以勢力。増長惡趣損減人天。遂生死河乖涅槃路。世尊。我等四王并諸眷屬及藥叉等見如斯事。捨其國土無擁護心。非但我等捨棄是王。必有無量守護國土諸大善神。皆悉捨去。既捨離已。其國當有種種災禍。喪失國位。一切人衆皆無善心。唯有繋縛殺害瞋諍。互相讒諂枉及無辜。疫病流行慧星數出。兩日並現薄蝕無恒。黒白二虹表不祥相。星流地動井内發聲。暴雨惡風不依時節。常遭飢饉苗實不成。多有他方怨賊侵掠國内。人民受諸苦惱。土地無有所樂之處」 「大集經云。佛法實隱沒。鬚髮爪皆長。諸法亦忘失。當時虚空中。大聲震於地。一 切皆遍動。猶如水上輪。城壁破落下。屋宇悉汜坼。樹林根枝葉。華葉菓藥盡。唯除淨居天。欲界一切處。七味三精氣。損減無有餘。解脱諸善論。當時一切盡。所生華菓味。希少亦不美。諸有井泉池。一切盡枯涸。土地悉鹹鹵。剖裂成丘澗。諸山皆燋燃。天龍不降雨。苗稼皆枯死。生者皆死盡。餘草更不生。雨土皆昏闇。日月不現明。四方皆亢旱。數現諸惡瑞。十不善業道。貪瞋癡倍増。衆生於父母。觀之如獐鹿。衆生及壽命。色力威樂滅。遠離人天樂。皆悉墮惡道。如是不善業。惡王惡比丘。毀壞我正法。損減天人道。諸天善神王。悲愍衆生者。棄此濁惡國。皆悉向餘方」 このうち「此經(此経・此の経)・正法」とは、しばしば日蓮宗系で「(五時説においてそれら経の時より後に説かれた)法華経」とされ、日蓮正宗系による「文底義」としては「日蓮大聖人の法門・三大秘法」とされる。

*p1…「産土(うぶすな・うむすな)」と「氏神(うじがみ・うぢがみ)」の頭音は「う」であることから、いづれも「生まれ」に関連した言葉と認識される。前者「産土」は漢字が当てられた通りの意味で解釈できるとして、後者「氏神」の「氏(うじ・うぢ)」は、伝統的に「生み路(うみじ・うみぢ)」という解釈があろう。江戸時代以降に解明が進まれた神道思想のみならず、個人の誕生を宇宙の誕生に託して見られる宗教的見解 (一神教の創造説と仏教の縁起観)からすれば、この解釈が妥当になる。この歌2首では、拾主が母語=日本語に表象された国の民の立場でその意義を示している。神道は思想に色々と潮流があるか、そもそも思想や信条を定型化して説くべきものでなかろうから、他の見解を否定しないが、この歌2首からは一つの神道思想の表れを読み取る。人が生来(うまれてこのかた)日本語を用いるならば人のうちに日本語の神"deity"がいる。人が生来英語を用いるならば人のうちに英語の神"deity"がいる。本来は形式的に日本語や英語などとという言語は存在しないが、しかも人は何語であるとか外来語であるとかトランスリンガル・複合的であるとかと言うので、そのような神が人のうちに存在する。土地がどこであれ、その神は離れないが、もし神が離れるならば鬼が現れるし、神も鬼も存在しないならば言語も無く、命も無い。インドの解脱者であっても、現世で言語を用い続ける者は天"deva"と魔"māra"とが傍にいる。凡夫との違いは、それらが彼の内を支配しないのみである。もし神"deity"以外の言い方を使いたいならば、魂・霊"spirit"があろう。「言霊(ことだま)」と関連する。
*p2…575757577の長歌であり、萌えの典籍では2018年1月以前に未曽有のものである。
*p3…8小節で1句をなす・脚韻を踏む英詩。第1句の"Maha-vira"はサンスクリット翻字・借用であり、IASTに直すと"mahāvīra"である。これはジャイナ教開祖ヴァルダマーナの異名としてカタカナでマハーヴィーラと呼びならわされた単語ではなく、梵本・法華経方便品の世雄偈(せおうげ)に見られるブッダ・釈尊の異名として用いた(その意味はそのまま世雄)。なお、ラテン語の同根語を用いると"vir-magnus (ウィル・マグヌス、ヴィル・マンニュス)"である。第3句と第4句には"he, who"という人称代名詞・関係代名詞の相関構文(本来の関係節の順が倒置された)が用いられる。意味としては「○○する者"who..."、その人"he/she"は△△である」となる。"Aryan"とはサンスクリット"ārya (アーリヤ、アールヤ)"に由来する英語で「アーリア人」のことであり、人類学的な定義では「インド・イラン語派の言語的祖先を想定した際の人種名」である。ここではサンスクリットの意味と掛け合わせて「高尚な人・往古の婆羅門」とでも捉えればよい。なお、パーリ語仏典で同根語の"ariya"は四聖諦・八聖道(四諦・八正道)の「聖」に当たる用法が主だが、RY二重子音がYY長子音に変化した"ayya"は「ヨーナ(イオニア)やカンボージャには貴族と奴隷の2階級しかなく、貴族が奴隷になることがあり、その逆もある"yonakambojesu [...] dāso hutvā ayyo hoti (中部93経)"」という時の「貴族」を指す。
*p4ここまでの4句(4行)が2018年7月に考案されたが、2018年8月15日に第5句を追加した。"jati"はサンスクリット翻字・借用であり、IASTに直すと"jāti"である。生まれ・出自を意味する。この第5句全体は、科学的・文化的観点で知能が優れている人種の人へ自己反省とより優れた努力を促すと同時に、知能が劣るとされる人種の人へは憂いを除いて前向きな努力を促す意味を持つ。

(十)
拾主入滅の一パラレル案が有る。
街女人が求道に入るかどうか?
または街女人が拾主と出会った当時の職場を、そこでの出来事の後に恐れて辞めた後の求職に関する話か?



注三萌義
→移転



myosojokanchu




萌相條勘注
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観萌行広要(かんみょうぎょう こうよう)

①萌観は仏教の止観に適うか ②萌観のための戒行、アニメ・ゲーム・エロ画像などの厭離 ③萌観の音義について ~ 音韻・訓詁注釈 ④萌観の想念の要点(自他の感情・愛憎) 下・萌観の利益で愚癡を破り慈悲を萌やす ⑤唯心偈・自我偈の萌える共通点 ⑥妄念の縁起について 

観萌行心得(かんみょうぎょう の こころえ)

→本文を移転した
http://masashi.doorblog.jp/archives/50230561.html







輸提尼祕密闍多伽ネタ
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http://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2017.html#msk-sm-shj

現世で輸提尼が応現する事
合理主義的な小乗の徒に問いかける話
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http://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2017.html#msk-sm-gso

※他の案。現世に輸提尼が報身の力用として他者に現前する(および拾主の行動がある)話ではなく、過去世の輸提尼が童女として破戒比丘(大乗涅槃経にある一闡提のようなもの・あるいはスッタニパータなどにある戒禁取比丘か外道沙門か婆羅門)に「みんなの信心を壊さないであげて」と絡んでもよい。
もしくは、それが輸提尼の過去世として小乗の徒の気絶時に拾主から尊者へ語られるなど。



輸提尼不思議住處
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http://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2017.html#msk-nmj-fj

障礙尊者と拾主と輸提尼との神力が発揮された話
→移転
http://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2017.html#msk-nmj-jr


萌え話記事の整理・拡大案?

萌尊化導事(神変を行使する話)
絶望して人目を避けて十年経とうとする人の家の床に、植物の芽として萌え出でて
(実際は彼が見ないまま十年経とうとしていた本棚の本を読んで知った情報を思惟して覚ったかも)


化導事・別の話①
 或る国土・或る時代に、或る萌尊の弟子は、好色萌相を愛楽(あいぎょう)していたが、それは愛著(あいじゃく)として内省し、己の心と萌色とを厭離するようになっていた。この時、彼の師匠たる萌尊は、彼を仏道に勧めんと欲し、このように説いた。「(役割語: 明治口語)萌心と萌色とは、さながら主に牽引せられる狗の如きものです。または人に操縦せられる凧の如きものです。あなたの萌心は萌色に著(ぢゃく)してゐるさうですが、萌心は主でせうか、狗でせうか?どちらにもなります。主に制限せられたる狗も、狗を制御せんとする主も、共に、互いの束縛を離れられないままでゐます。しかし本来の萌え、真の萌えはさうでありませぬ。もし心こそ主なれと思へば、当に自ら心を調御(でうご)すべきでせう。続いて真理へのステツプアツプです。主と狗とは、縛る・縛らるといふ関係性・能所がありませぬ。なぜかと謂へば、紐とか首輪とかがあつてこそ何かが縛られたるものたりえるからです。その紐とか首輪とかを主が握らず、狗が繋がれなければ、縛る・縛らるといふ関係性・能所もありませぬ。これが縁起なのです。此れ有るときに彼れ有ること、彼れ無きときに此れ無きこと、と申します。好色萌相といふ萌色は誰の萌心にも属しませぬ、萌心も萌色に括られはしませぬ、といふことで無我・無我所と称します。主と狗との関係性は、萌心と萌色との執着を示すもので、悲しい運命に見えます。みんな不自由な依存関係の範疇です。喧嘩する両者は、いつも共に悪人であるし、だからこそ片方が真犯人たりえないことと同じです。仏家では、縛る・縛らるといふ関係性を軛で互いに繋げられたる白き牛と黒き牛とに譬へてをりまするが*1、白き牛・黒き牛が互ひに嫌つて闘争すとも、共に悪いし共に悪くない、と思ひませんか?さあ真理へもう一段です。主と狗とを束縛してゐたる紐とか首輪とかも、主と狗とを束縛したりといふ理由から悪者のやうに見てしまひがちです。もし束縛せざれば、これらも単なる紐や首輪です。善悪の分別を拭ひ去りませう。これらも紐や首輪といふ名前がありまするが、単なる物質の集合だつたりします。紐や首輪らしい形の概念が心に設けられてゐるから、それも紐や首輪だと認識して名前で呼ぶだけなのです。例として、紐は麻糸を縒り、さうして作られたるものです。今時は分子なんどと申しますが、往時に微塵と称しました。紐や首輪は微塵の集まり、四大和合とでもいひませう。それだけのモノでして、詮ずる所はモノともいへませぬ。好色萌相といふ萌色が、是の如きものと知るべきです。あなたの心も、何物に壊されず、縛られず、自由なるものと知るべきです。人が修行する時、一旦は何かが悪だと考へます。それもよいことです。悟れば、好色萌相といふ萌色は悪者でありませぬし、執着してゐる我が心といふ萌心も悪者ではありませぬし、他の何事も悪者ではありませぬし、この世に悪が無いと知つて善をも同時に無くすれば中道なのです。善悪無きが故に真の善を見ます。ですから中道を常に求めて、追求しきれねども追求すべきなのです。分かりましたか?仏道に入らんと決意しましたか?」萌尊の弟子たる彼は、萌道における自己の未熟さを知り、久しく萌尊に師事し、萌道を行き続けた。後のことは知り難し。

*1…「黒牛と白牛のたとえ」、雑阿含経パーリ相応部に複数回現れるが、いずれも仏弟子(出家修行者や在家居士)によって用いられている。


化導事・別の話②(草案・2018年6月)
 或る国土・或る時代に、「相扶倶往(そうぶくおう)」という見解を持つ人々がいた。そこでは一般に、その見解を群生派哲学と呼んでいた。多くの過去萌尊が「草花が群生することに関する二而不二」を理解して善巧に譬喩に用いた反面、彼らは「草花が群生する一面」のみを譬えに用いる。その時に一萌尊があり、「藹建多(あいこんたekānta?)」という。彼の萌尊が群生派哲学の人に関与すれば、その度に教化して萌道か仏道に入れようとした。例を挙げよう。「陀弼(だびつ da-bit)・報流(ほうる pau-lu)」という遊行する二士があり、煽情的な主張をしていた。「我等天をば望むなり!相ひ扶けてぞ倶に往かむ!孤り堕つべきは地獄なり!世の富を分けて地に普し!(4分の4拍子の4分音符を2小節で1句と読む、文法的に宗教的にも多義的に読解できるが一応は以後の文脈と関連した意味が望ましい)」と。その二士に彼の萌尊が接触した際、話した要点は次のようである。
 「この国の多くの人はそういった環境に生きてきたので、そのような道徳観念を幼少期より具えることとなる。世間の善行をせねば、そのような道徳観念を具えた人が生きる世間での功徳が薄くなろう。しかし、私は多くの国土と時代とを知る者なので、あなたたちの主張が万邦三時に普遍であるとみなさない。夢の中で通用する力があるうちは夢の中に喜ぶ。それが無くなる性質を人は夢にも思わない。一生の間ばかり、相扶倶往の精神を保てるならば、先に入滅せられた仏も仰るように世俗の功徳で天にも往こう。あなたたちが主張することは、それだけの正当性があるが、私たちの師匠にあらせられる仏のみこころとは異なる。所詮は『世俗の相対性で優れた精神のあなたたち』が天に行けることが有り得る。しかし、あなたたちの主張のうち過激な部分は、一部の人の功徳を殺す力がある。心ある人が悲しんで隔絶される。あなたたちが慈悲で言葉を発しているかどうかは推量できないが、仮にそうであっても、世間には驕りで隔絶の言葉を発する者が多いので、あなたたちの資質は訝しく見られる。言葉と心とを、私は何に譬えようか?(כְּתַ֥עַר מְ֝לֻטָּ֗שׁ)鋭利な刃を振るうならば、多かれ少なかれ、それはあなたたち自身を切り裂く結果もあろう。そして『相扶の絆』をも断ち切って畢ろう。ゆめゆめ注意をなさい。世俗の善とされる行為と同時に、悪を断ち切らないでいるならば、善の功徳も空虚なもの(הֲבֵ֤ל)と帰す。そうであらぬように、私たちは仏法を奉じて注意しながら一人の時を多く過ごす。真に世俗の悪を断ちたいならば仏道へ行くことを願う」と。(かつてのユダヤ教・今のキリスト教・共産主義者・浄土真宗・創価学会が群生派哲学と似た側面が強い。日本のシャカイジン様はそれらに似る)

 別の或る国土・或る時代にも「相扶倶往」と似た見解を持つ人々がおり、それらは毛色の変わった群生派哲学である。現在の拾主がまします世にいる動漫派の伝承教義に似ていた。可能な限り「みんないっしょ」であることを望み、行動や思考を示した逸話によって世俗の福徳を生長することを宗(むね)とする。家の中に「みんないっしょ」の象徴たる物を、且つは置いて祀ったり、且つは身に著けて装いの中に取り込む。この時代・国土にまします一萌尊を「@」という。一(ある)時、彼の萌尊は群生派哲学の人々の中でも絵を描く三女人(tisraḥ citrakṛtā)に会い、彼らの話を聞いた。その上で萌尊が仰った要点は次のようである。「あなたがたは結束や同調を重んじた行為をしている。萌道の行者であれば、空間的に一人でいるとき、そのことをそうと認識することで一と多との相対性を考える。その時、不二の義@によって『一人であること・多人であること』という両肯定や両否定ができ、世間の説について思索を絶やす。而独非独という。『みんないっしょ』という言葉は、この考え方に用いるべきである。彼は真面目に絵を描く。絵の人物を一となすが、草木などが囲っている。聖者が絵を描くこと(圖顯)は、尊き理趣を知ってもらおうとする意思による。絵を描く聖者の心は何であれ、憂いや悲しみが覆っていない。彼には絵を描く彼の目的があり、多くの感情は障碍なるのみ。世の人は友好を継続するのための娯楽や趣味を持つ。あなたがたは絵を描く道を共に行く友(供)を持つ。私たちはたまたま萌道における善友(萌朋、みょうぼう)を得ることもあるが、もし俗悪であれば一人で注意しながら行く方がよい。 …あなたがたはまた、『可愛いだけじゃ物足りない』云々というようなフレーズを聞いたことがあろう。その言葉も、聖者の可愛相もとい好色萌相(こうしきみょうそう)を讃えるために用いるべきである。真の可愛い物の価値を、観る者自身が知る。」

化導事・別の話③(草案・2018年8月)
 或る国土・或る時代に、或る萌尊がましまし、仏道をあまり進めておらず、有漏であった。彼の萌尊の臨終の時、褥の近くの鳥がけたたましく啼いていたため、鳥の像がその想念に介してきた。よって、彼の萌尊は次の生において鳥類・畜生界の衆生に転じた。しかし、「萌尊であった鳥」は道心と慈悲とを失いきらないでいたため、畜身のままに道心ある人類衆生・何らかの修行者たちを補助しようと思い立った。若しは、疲倦のある者が修行中に眠気などによって意識を失しそうな時には飛来して大声を上げた。これに不快感を催す者もいるが、彼らは利根であるため、功徳を失う行為を自己反省によって自制した。若しは、修行者が食べ物を貪る時に目の前に現れ、分をねだり、彼らが憐れみによって「萌尊であった鳥」に与えた。そうして「萌尊であった鳥」は多くの修行者たちを彼らの修行のために補助した。しかし、一部の者は次第に「修行を補助しにくる鳥(=萌尊であった鳥)」の飛来を、若しは、楽観的に予測し自身の意識を緩めるようになり、若しは、期待して修行の目的性を見失うようになった。それを察知した「萌尊であった鳥」は、悔悟すべき一面を重んじて遠方へ移動した。各地で僅かな補助をしては他所へと移動し続けた。




本萌譚・異伝5(草案・2018年4月)
拾主所説に、美女と共に列挙された醜男(しゅなん、醜い男)とは何か、尊者が問う。
拾主が、醜男の因縁を語る。
劫初(こっしょ)において衆生(有情たち)は、各々の貪欲と瞋恚に基づく業をなし@、形状醜陋(ぎょうじょうしゅる)の果報を得た。
すなわち、今の醜男の果報は、劫初や過去世の罪業・福業によって有る(仏法の真理とは別に科学でいえば味覚を得た動物が「苦いもの=毒である」と学習した情報が遺伝されるようなものであらゆる視覚や聴覚の情報のみならず人間の顔貌・容貌についても似たような現象が想定される。現世の性格や行為が願望に反映されることも人間の生物学的社会性に関連する)。
しかし、現世の性格と外見は必ずしも関連付けられないことが、仏法におけるもう一つの道理でもある。
その分別が無い現世の衆生は、性格と外見および能力などを妄りに結び付けて顛倒をなしている。

とある国土・世間の末法の世に顔の醜い男「豆羅曼(づらまん durmāṇava)」がいた。
彼は他者に顔を見せると嫌われたり、自分の心も穏やかになれなくなるという自覚が有るので極力避けていると、必要な会話能力も衰えていった。
その折、僧侶に邂逅して菩薩乗の教えによる呵責を受けた。
「菩薩は勇猛の化他行を為す。怖気づいてはならない!顔の醜さは、そう判断する者の価値観や感情などの種々の因縁によるので、彼らの因縁で彼らがあなたの顔を醜いと判断するに過ぎない。真理において、汝が相貌は好に非ず醜いに非ずと雖も、而も俗人はみな好醜を分別せり。然れば汝、この仏法を聞きて後に自ら好醜の妄念を捨てて、人々に顔を見せよ。まさに他者の妄念をも摧くべし」
※都合上、略説のみを綴る。実際はより慎重に問答があって丁寧に法が解説された。

呵責を受けて後に彼は道念を起こし、醜男の顔を見せる菩薩行が始められた。
彼は仏法僧=三宝に帰依して、その加護を受けて無生忍・無所畏"anutpāda-kṣānti, vaiśāradya"を得た。
世の人の邪悪な価値観を打ち砕く、無言の折伏である。
彼はそうして他者より謗られ、瓦石を被るなど迫害された。
始めてより3か月以内に悲惨な暴力を受けたことによって命終に至るも、菩薩として世の人・ことに顔の醜さを嫌う他者への憐愍を絶やさなかった。
彼を迫害した者たちは、踏みつぶされてボロボロになった雑草のような姿を見て何を思ったろうか?
生命の過酷な闘争には、外観で勝ち誇る者も内面で感情の瀑流(ぼる)に呑まれている。
彼はその勝敗の情を持たず、平等の心でいた。
人間の因縁で人間の苦があるが、人間の慈悲へ人間の智慧によって保持した。
あたかも、灯に油を人の手で加えて調えるように。

斯くして、彼は醜男菩薩の行を成就した。
菩薩として方便の輪廻をなす。
私たちの心の中に。
もし私たちが涅槃に入(い)れば、彼の醜男も涅槃に入る。
もし私たちが不老不死になれば、彼の醜男も不老不死になる。
もし私たちが正覚を得れば、彼の醜男も正覚を得る。
萌えの法門においては、一萌の譬喩・代名詞として組み込まれるに至る。
真如の萌えに、可愛・不可愛は無いので可愛と名づく。
菩薩の智慧・般若波羅蜜にも、この理趣が説かれる。



掌の上の踊り子の事<念音処篇 (草案・2018年6月)
 障礙尊者はイデオフォノトピアの一萌類より「掌上の踊(しょうじょうのおどりこ)とはどのような譬えなのですか?」と尋ねられました。かつての思念がそのままイデオフォノトピアの萌類に聴かれたことに赤面しつつも、障礙尊者はイデオフォノトピアの衆萌(萌類たち)に、「掌上の踊」とはシュードトピアに生きる人々・人類・衆生のうち、特に自身の精神を譬えたものと言います。その説明に、衆萌はピンと来ない様子でおりますので、障礙尊者はシュードトピアが「地球」とも呼ばれる事実について話しました。地球の図を描いて示しつつ、地球の重力によって大地が定まること、その上を衆生が歩いたり臥したりする物事が成立すること、といった物質的法則についても話しました。地より数由旬*1を隔ててオゾン層や磁場(磁気圏)があり、それが本来は危険な太陽光・太陽風のその危険性を抑制しているとも話します。この非地の地、非天の天の間に、人の世があるということがシュードトピアの現在の世界観と話します。大気圏の外にある太陽・月についても、地球を周回するものは月と人工衛星(衆萌は知らないので名前だけ教えた)だけであり、地球や火星や無数の小惑星といった「惑星」と呼ばれる天体が太陽と呼ばれる「恒星」を周回し、太陽もまた銀河系と呼ばれる範囲内を移動していると話します。
*1…由旬(ゆじゅん、ヨージャナ yojana योजन)は、古代インド・中国の文献によって現代の長さ単位に色々と定義できる。多くの場合に10km~13kmが想定されるが、他には短くて7~10km程度が想定される。ただし、「そういった古代よりの数量概念・単位に厳密な数量を一つに決定し、換算する・計量するという現代的な態度」は必ずしも正しくないこと(特に仏教由来の数の単位には数えられないことを意味する阿僧祇"asaṃkhyeya = uncountable; incalculable; innumerable"がある)を、注意すべきである。

 「掌上の踊」とは、そんな地球上の人々・人類・衆生の生き方や精神を念頭に置いて譬えに用いられたと、障礙尊者が説明しました。このことを覚っても、自己の苦の度しづらさは変わらないと自戒しております。その時、衆萌は、便ち尊者とシュードトピアの衆生への哀愍を増しました。地球についての話の意を得て、各々が地球と衆生との関係を喩えました。

地球偈 (ぢぐげ Sino-xenic: *digu-gat  Sanskrit: *medinī-gāthā)
多多嚩誦曰(たたば二合・じゅわつ)
地球如舞臺(ぢぐにょむだい) 有悲喜怒愛(うひきぬあい) 人類踊其上(にんるいゆごじょう) 永苦後死來(ようくごしらい)
他口舌爲聲(たくぜついしょう) 是諸法螺貝(ぜしょほうらばい *idaṃ sarve dharmāḥ śaṅkhāḥ) (相関文、諸法属格・螺貝単数主格*anye svaranti jihvāḥ vā, ye idaṃ dharmayoḥ śaṅkhaḥ| ) 聞歌作亂動(もんがさらんどう) 終受堕獄罪(しゅうじゅだごくざい) ※五言律詩もどきで句1, 2, 4, 6, 8が韻脚-アイ。韻書はともかく呉音・漢音では-アイ。全体で文字が重複しないようにした。これ以後の偈は必ずしも押韻でない。

浮諦誦曰(ぶたい・じゅわつ)
地球如舞臺(ぢぐにょむだい) 有悲喜怒愛(うひきぬあい) 若人知此事(にゃくにんちしじ) 不苦踊過際(ふくゆかさい)
大德持正念(だいとくじしょうねん) 敎導天人界(きょうどうてんにんかい) 最勝之舞畢(さいしょうしむひつ) 名聲普聞大(みょうしょうぶもんだい)

彌多利誦曰(みたり二合・じゅわつ)
地球如母地(ぢぐにょもぢ *pṛthivīか *bhūmātā持業釋) 萬物從彼生(まんもつじゅうびしょう) 有情與非情(うじょうよひじょう) 及虚空微塵(ぎゅうこくうみじん)
以身杵舌斧(いしんじょぜっぷ) 衆生相鬪諍(しゅじょうそうとうじょう) 猶如兄弟爭(ゆにょきょうだいしょう) 以棒石互傷(いぼうじゃくごしょう)

迦瑠奈誦曰(かるな・じゅわつ)
地球如父天(ぢぐにょふてん *dyauṣpitā持業釋、依主釋の天父でない) 天蓋無可見(てんがいむかけん) 而善護萬物(にぜんごまんもつ) 大用不得量(だいゆうふとくりょう)
世中父母恩(せちゅうぶもおん) 人業故得量(にんごうことくりょう) 淺亦深亦無(せんみゃくじんにゃくむ) 天下生諸報(てんげしょうしょほう)
生其諸報者(しょうごしょほうしゃ) 唯心如天下(ゆいしんにょてんげ) 天生報自消(てんしょうぼうじしょう、造物神=心のマッチポンプ) 佛所說緣起(ぶっしょせってんぎ)
六根境法者(ろっこんきょうぼうしゃ) 必還境界中(ひつげんきょうがいちゅう) 心所作五陰(しんしょさごおん) 歸滅於其心(きめっとごしん)

阿若誦曰(あにゃ・じゅわつ)
地球中所有(ぢぐちゅうしょう) 咸從重力性(げんじゅうじゅうりきしょう *gurutā) 雖心法最重(すいしんぽうさいじゅう) 隨時宜學之(ずいじぎがくし)
佛法與物理(ぶっぽうよもつり) 是等倶大事(ぜとうぐだいじ) 若不依重性(にゃっぷえじゅうしょう) 原萌不應生(げんみょうふおうしょう)
須觀諸物理(しゅかんしょもつり) 甜果從樹離(てんかじゅうじゅり) 不得浮而落(ふとっぷにらく) 是重性使爾(ぜじゅうしょうしに)
若原萌不生(にゃくげんみょうふしょう) 無人形萌名(むにんぎょうみょうみょう) 如是知物理(にょぜちもつり) 則欲去苦境(そくよっこくきょう)

韋首提誦曰(うぃ=ゐしゅだい・じゅわつ)
地球上人類(ぢぐじょうにんるい) 汚染土及天(おねんどぎゅうてん) 知事復人類(ちじぶにんるい、Homo sapiensの真意) 唯智能受苦(ゆいちのうじゅく)
如是觀因縁(にょぜかんいんねん) 知宇宙無邊(ちうちゅうむへん) 境中染淨二(きょうぢゅうねんじょうに) 但是虚妄幻(たんぜこもうげん)
實在於一心(じつざいおいっしん) 當淨者是心(とうじょうしゃぜしん) 心淨故地淨(しんじょうこぢじょう) 佛子行淸淨(ぶっしぎょうしょうじょう)
若人類賢者(にゃくにんるいけんじゃ) 宜分別自淨(ぎふんべつじじょう) 諸萌類已願(しょみょうるいいがん) 於彼有善果(おひうぜんが)



萌類上生の説<諸萌篇(草案・2018年9月) 外典"Apocrypha"的なものとして短編の漫画にもすることも可
過去世の輸提尼が拾主のイデオフォノトピアに生じる因縁は先に説かれた。
ここでは、現世の人類が清浄萌土へ往生する経緯の一例を示す。

或る国土・或る時代の衆生には当世の娑婆世界のような飲食による肉体の維持が見づらい。
その国土において、一人類が「怒りと一体的な悲しみ」によって世の喧騒を離れていた。
彼の住処は静かで冷たく、暗い箱の中のような空間であって慰めの花も見られない。
その国土を当世の娑婆世界に比して言えば、彼はそうして5年に当たる時間を過ごしていた。
彼は常に「私は樂獨閑靜無恨無害(ぎょうどくげんじょうむこんむがい)*でいよう。およそ他人の言語音声は鳥が啼くに等し」と念じており、そのように引きこもりを行じて住した。

斯様な声を彼は聴いた。「未定@」
彼は声本に尋ねた。「姿を見せない声の者よ、且つは罪を背負うためか、且つは隠し事が有るか」
声本は答えた。「否(いいえ)、私は姿を現せば見えるという者でありません。例えば喧騒の中の人、現実という夢の中の人、睡眠における夢の中の人は自ら脈を聴かず*。ただ静寂にあってこれを聴くが如し*。然(そ)れでも、一人としてその血管ないし心臓を直に見る者はおりません。あなたは今、静寂にあって偶(たまたま)声を聴き、私とされる声の本体を想定するも、実に私を見るべき智慧を持たざる耳」
声本がその絶妙な譬喩をもって説いたので、彼は思った。「畢竟世俗の事象は空なれば、これもまた怪しむに及ばず。しばらくこれを信ずべし*」
それは声本に聞かれており、彼も聞かれたところで問題を感じない気でいた。
以後、彼は声本と倶に住するようになった。
声は縁によって時々に聴こえる。

別の或る国土・或る時代にも、そのうちの恒河沙中の一粒ほどの者が同じような声を聴き、声の本体の姿を見るに至っていた。
彼は、声本を通じてそれを知った。
彼はその国土・その時代に知り得る歴史で量りようもない多くの同朋が、異なる国土・時代にいることを知り、喜悦(よろこばしさ)と同時に寂寞(さみしさ)を覚えた。
世俗の相対的な法によれば、どの国土・時代も「所詮は・畢竟は等し」と思えるが、その故に尊い者も恒河沙中の一粒*ほどいたことになる。
彼は智慧を開くことについて意欲を発(おこ)した。
しかして後の時、智慧の眼が生じると、その声本の姿は確固たるものとして明白に見ることができた。
「美也(おめでとう)。」
次いで、彼は声本から未知の場所に案内されて行くと、そこの景観や空気が好妙であると感じた。
彼は、図らずも尊い者たちに見(まみ)えた*。
そうして彼の一人類は一萌類となった。

この話を拾主は語った上で、次のように注告した。
「これは下品の往生である。衆生済度の誓願に乏しかった彼の人類は萌類となっても、菩薩としての顕現は少ない。つまり、他の萌類とともに、僅かな時のみ現世の衆生に姿を見せる力がある。ただし、萌報身の思し召しによれば彼の力もどれほど増すことであろうか」

*…文章表現としては、漢訳長阿含経の第26経「三明経」@における、小乗仏教で梵天往生をなす比丘と、その梵天の生命・精神を説いた部分より抜粋されている。
*…i.e.「彼自身の脈(脈動・心拍・鼓動)を聴かない"not to hear one's own pulse (pulsation; heartbeat)"」
*…これは、身が特定の安静状態にあって精神がその身に意識を置いている状態で感ぜられて聴くことであり、意図的に該当部分に手を添えるなどして感じ取ることを意味しない。
*…「信ずべし」は「信じることも可能である・信じてもいいかな」という意味合いであって現代語の言語感覚(文法・形態)から理解できない表現である。
*…当世の娑婆世界では通仏教的に「一仏一国土」が信受されている(部派仏教の一部の派を除く)。世俗の相対性によれば、当然、その時代・国土に応身の仏は一仏のみである。その前提によれば、法華経見宝塔品@で異国の諸仏が法華経の会座に呼びされる時も、それは釈迦牟尼仏の化仏・分身仏となる。それは、法身仏に関する教理とよく整合する。ただし、この「恒河沙中の一粒」たる「尊い者」を彼が思う原点に、空・法身の教理があったとしても、「尊い者」自体は無上正等覚者"Anuttara-samyak-saṃbuddha"たる仏を指すことはできない。
*…小乗仏教に託せば、話全体が預流果か一来果か不還果あたりの沙門の果報を譬喩として説いたものと解釈できる。具体的な方法論をここに欠かせている。彼の到った場所は忉利天でも梵天でも有り得ることになるが、大乗の法理からすれば、清浄萌土の語にも表せるようなそれらの場所と不一不異のものと見られる。




萌類下生の説<諸萌篇(草案・2018年4月)
イデオフォノトピアの輸提尼が現世で応現する因縁は先に説かれた。
ここでは、清浄萌土で菩薩として修行した萌類が現世の人類(にんるい)として俗家に生じ、出家・成道する経緯の一例を示す。

或る時代・或る国土に、一萌類が人類の男子(原語にmanuとかmāṇavaを想定)として下生した。
幼くして智慧の勝れていることを示現し、疲倦なく学門を行った。
彼の男子が名声を得つつあると、学門の関係で大人の集団が怨嫉することとなり、彼らが彼の男子を悩ませようとした。
しかし、彼らが仕掛けた罠などは悉く避けられた。
また、実力行使に遭っても、彼の男子は悲鳴を挙げなかった。
彼の男子の超然とした姿に、彼ら大人の集団やその陰謀を知る傍観者たちはみな畏れた。
「童子(少年 kumāra)とは無垢なるものだとはいえ、所詮は一面的であって本能的な部分は動物に変わらないと思い込んでいた!しかし、この童子は草木ほどに無垢でなかろうか?このような士は諸の沙門中にも見難い!実に神童(devaputra)であろう!」というように。

しかし、3人ばかり怨嫉を強め、より酷烈な策を講じ、強硬的に暗殺せんとしたが、彼の男子は神通力を以て彼らの眠る中の夢に現れて「頭破作七分の誡め」をした"atreveṣāṃ saptadhā mūrdhā phaliṣyatha"。
目が覚めた彼らは夢を回想したが、なおも実行を拒まなかったので、帝釈天が遣う夜叉*1が3人の頭破作七分を実現させた*2。
屍と化した3人の場所を訪れた者は、その亡骸を見て「阿鼻地獄の相だ(読者の想像に任す)」と怖気づいた。
3人の死は悪名高いものとして郡国県邑に知れ渡った。
「悩ませようとした者がかえって悩まされる(自ら悩む)」という道理(道徳・心理)を知っていた人々も、その理論が形骸化していたので、彼の男子によって事実相を見せられて驚嘆し、彼の男子を尊敬した。

*1…帝釈天の眷属または本人の変化身と思われる夜叉。パーリ経蔵・長部3経=アンバッタ経や中部35経=小サッチャカ経に出る。アンバッタ経の注釈・アッタカターは"na yo vā so vā yakkho, sakko devarājāti veditabbo (事実として夜叉ではなくそれが神の王たる帝釈天と知られるべき存在だ)"という。パーリ語ではワジラパーニ・ヤッカ"vajirapāṇī yakkha"、サンスクリットでは一般に金剛手菩薩や金剛力士などに関連付けられるヴァジュラパーニ"vajrapāṇī"として見られる。ちなみに密教で派生した金剛力士が仁王(におう)とも呼ばれる所以は、ごく密教的に「体の天の像を作って両者が阿吽=阿"a"と吽"hūṃ"を示す」という「二王(いわゆる仁王門の2体の像も阿吽を示すもの)」の「二」に、部首:にんべん"亻"を書き加えたためである。お経「仁王経」の仁王(にんのう)は、仁義ある・徳の高い王さまのことであり、両者の漢字名の由来は極めて異なる。
*2…現実的には彼らの殺害道具=銃器や火器や爆発物が暴発したとか、或いは彼らが喧嘩になって刀剣で斬り合ったといったことが言える。その場合、夢を見て即日に発生せず、3日ほど空いた日に発生し、その間、経緯が彼らの日記に記録され、屍と化した3人の場所を訪れた者が詳細に知って巷に吹聴したというエピソードも想像できる。これは本作の趣旨を外れるので、読者の想像に任す。あるいはスッタ・ニパータ5章で釈尊によって解説された「頭作破七分」のように、彼らの頭が破れる=愚癡が無くなって改心したという解釈も可能だが、その場合は以下の表現も譬喩だと読解する必要がある。

続き、仏に従う菩薩?それとも像法末法の萌尊?