mainen00さん 2016/1/31 15:23:27

末代末世に善知識・善友は値遇し難しと憂えませんか?
釈尊入滅から2000年を優に越した歴史上の事実に、信仰面・学術面、小乗や大乗の別は無く認められておりましょう。
就中、私は表題のような「末法」の様相を肌身に覚えてなりません。

善き師・善き友、世俗的な意味においても私などは惨めでありますから、小学校の半ばより乏しくありながら、同時にその善き師や善き友を得られることの何と有難いことか、誰よりも知っておりました。
今、また独りでかたじけなくも仏教を学んでいて、やはり仏道を共にする人間がいれば何より心強いことを実感します。
このように、善知識・善友の価値を訴えることは、これまた小乗や大乗の別はございません。

日本でも有名な言葉のパーリ語原文です→Ekassa caritaṁ seyyo, natthi bāle sahāyatā, Eko care na ca pāpāni kayirā, Appossukko mātaṅgaraññe va nāgo.
※平易なローマ字表記(IAST)を用いている海外サイトを探して引用しました

大乗においては、仏道に背く者が世間の善行をしようと「悪」であるとされ、小乗においては、世間の道徳に背いたり欲が強くある者が悪とされます。
どちらにせよ、そのようなものと親しみ近づくくらいならば独りでいろ、独り善良であれ、と説いておられますが、それはあくまでも「寧ろ」と消極的な扱いです。
よって、小乗にしても大乗にしても、仏道を共にする同志、すなわち善知識や善友の必要性が訴えられます。
それが叶わず、独り学ぶしかない末代で孤陋の身にある私は、差し出された豪勢な食事を前に桎梏を掛けられている餓鬼の如き者であります。

なので、末代末世に善知識・善友は値遇し難しと憂えませんか?
末法という理は、何もみなさんの嫌う「大乗のドグマ」とかではないと思っております。
この風潮こそ、末法濁世の法壊乱というものでしょう。
「末法」とは時代区分の一種、としてここでは捉えられたく願います。



mainen01さん 2016/1/31 20:43:50
 
"Sutta nipāta"より重ねて此の義を拝さん。
57. Pāpaṃ sahāyaṃ parivajjayetha, anatthadassiṃ visame niviṭṭhaṃ, Sayaṃ na seve pasutaṃ pamattaṃ, eko care khaggavisāṇakappo.

58. Bahussutaṃ dhammadharaṃ bhajetha, mittaṃ uḷāraṃ paṭibhānavantaṃ, Aññāya atthāni vineyya kaṅkhaṃ, eko care khaggavisāṇakappo.

この"Khaggavisāṇa (環境依存文字抜き: Khaggavisaana)"の章は日本で「犀角独歩(反N博士派いわく独歩如犀)」として有名なもので、上2つは本文中盤の意を表す。
57においては孤独の良さを説きながら、続く58ではやはり優れた人間を友とする価値を説いている。

本文において「日本でも有名」とした一節は、「林の中の象のように独り歩め」であり、その"Dhammpada"と同様、"Eko care (エーコー・キャレー、エーコー・チャレー)"という語が用いられる。
同じ語彙がある、と言いたいだけだが、にわか仕込みの私見ながら「独り歩む・一人で歩く」、英語と同文法と仮定すれば「独り歩め」といった具合に命令形か。

「パーリ語できる坊ちゃん(ボクちゃん)、偉いね!」

知恵袋には、サンスクリット語やパーリ語などをやたらと重んじる人間が多い。
彼らは、僧侶なら学ぶべき、出来て当然、とまで言うけれど、現代日本では漢文できる僧侶すら、そう多くないように思う。
ある意味、現代ならではの復古主義を知恵袋に見る。
現代なるが故に、原始仏典・阿含経などを優れた経として見るばかりか、漢訳経典を「訳者の脚色・虚飾・恣意的挿入が多い」などと卑下してしまう、悲しく思う。

私は法華経を第一に受持していきたいが、まさに今の末法の風潮は、その私をして「此経難持」と思わしむ。

さて、本題の「善知識」ということだが、偉大なる末法の教主たる日蓮大聖人は、種種御振舞御書に「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ」と仰せられた。
危害を加える人間の存在が却って善知識であろうことを、逆説的によく語られている。
末法においては怨嫉が多くあれども、今こそが諸々の愚者(私を幼少から苦しめてきた多くの人間など)を善知識とし得る時である。
大乗(権大乗)の徒も小乗の徒も外道の徒も無神論者もみな実乗の一善に帰せしめんと、志を改めねばならない。


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親・子と仏教について、世間の妄説・謬説 ("親"は神様か?)




仏教ではしばしば、仏とし、子供衆生と見立てた譬喩(たとえ話)が見られる。
私が信奉するところの「妙法蓮華経」で有名な、三車火宅や長者窮子や良医治子などがある。
また、長者窮子の譬喩とキリスト教の新約聖書の放蕩息子の話は、共に親子関係が題材であり、内容の類似性が噂される。
今回は2016年1月に19歳となる孝子たる私が、世間でたまに聞かれる「迷信じみた解釈をされる二つの言葉」について、仏教の上から啓蒙する。

  1. 「親の心子知らず(親の心を子は知らない・理解しない)」
  2. 「子は親を選んで生まれる(子どもは親を選んで生まれてくる)」
  3. 「いつまでも あると思うな 親と金」

 
1. 親の心子知らず

「親の心子知らず」とは、額面通り「偉い親の深い心を無知の子供は鈍感であるために知らない」ということを言うものではなく、迷える一切衆生に対する仏の慈悲と苦悩と憐憫を、親子(仏と衆生)へ準えた比喩である。
額面通りの「親なら偉くて子供はみな無知である」という意味でこの言葉を弄する者は、まさに為にする論法に陥る。

仏様は常に、一切衆生の三界に漂う様を憐れんでいる。
この濁った世の中で、欲望のまま享楽的に生きる者もいれば、どこまでも慳貪なるままに利潤を追求したり、人目に良さそうな名誉を集めて悦に入る者も多いが、それではますますこの濁った世の中を脱することは叶わない。
仏様は常に、一切衆生が仏道に入って三毒から解脱してほしいとの慈悲を持たれていること、「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身(仏・私は常に衆生を仏道に入らせて成仏を遂げさせたいと想い続けている)」との法華経の文に明らかである。
然るに我ら凡夫は、その仏様の深い御心など知らないでいつまでも修行を疎かにし、三毒に塗れて解脱に遠い俗悪の境地で生きつづけてしまう。

要は、親ならみんな達観していて賢い、というわけではない。


仏様の慈悲の深きことを知れば、世間の親というものは、生まれたての子供に乳を含ませる間もなく路上に放置するとか、泣く力も無くなるまで飢えさせついには餓死させる者などがおり、あまつさえそれが年々増加の一途にあることは、今や周知の通りであろう。
一方で、仏様は直接衆生に衣食住を与えて命を養うことはせずあれど、それ以上に大事なことを常に与えんとしている、既述の通りである。
一応は我が愚癡の実父・実母の恩に感謝をするけれど、真に尊敬尊信すべきは一切衆生の親にあらせられる仏様である。

「血縁関係の親子」といった隔たりはなく、「一切衆生」という全人類・全ての生命という愚かな子どもたちの親たる仏様だけが、尊く深い思慮を持たれていることを示す言葉が「親の心子知らず」となる。
されば、少しでも仏道を志すようになって、親の心を窺いに行こう。



 2. 子は親を選んで生まれる

「子は親を選んで生まれる」という言葉も、「お前(子供)がオレ(アタシ)を選んで生まれたんだろ、なんでオレ(アタシ)を選んだ?」と曲解して子供を責める意味は持たない。
まず分かりやすく、仏教とは別の方向の私の解釈を披瀝する。

この言葉は、「あなた親様は子供に選ばれた立派な人間なのだから、選んでくれた子供を宝の如く大事に養い育てなさい」という親への教訓がその本意なのである。
「少子化の世にあって親として選ばれた存在の責任と自覚を・・・」それを思えば、巷に増えつつある育児放棄・児童虐待の親などはこの教えに暗い者達であろう。
あるいは、自分を選んだからと居丈高になっている。
ましてや、宗教を信じない人間が「子は親を選ぶ」などという、酷く迷信じみた話を都合よく持ち出して子供を責めるのは論外だ。
信心の深い昔の日本人であっても、「子が親を選んで生まれる」という御伽噺をまともに信じることは無い。

第一に「親が子を作る」ということが科学的事実であり、それに準じて逆説的・哲学的な傍らでは、子の親に向けて含蓄ある御伽噺を説く。
含蓄を汲み取れずして妄りに、子供に対して責め立てる辞とするならば、単なる迷妄でしかない。

 
世界初!仏教的な見地で「経文を交えて解説」

続いて、「子は親を選んで生まれる」を仏教的に煎じ詰めていこう。
人間をはじめとする一切衆生は、前世ひいては無始以来の罪業によって現世ないし未来世が決まる。特に「子は親を~」という言葉に焦点を当てれば、「般泥洹経(はつないおんきょう)」に罪業の報いとして「生貧賤家 生邪見家(貧乏な家や悪い人間の家に生まれる)」といったことを挙げる経文がある。
つまり、「その人間や生物の死後に『中有』の存在となって来世の生まれを決める際、その善悪の業が基準となる」という点を俗に解釈して「子は親を選んで生まれる」などといった表現が作られた、と私見ではあるが、こう結論する。

要は、人間・畜生の子供となる運命にある「中有=抽象的な死後の生命」が、輪廻転生のシステム上、強制的に次の人間・畜生の親を選ばされる、と言える。


決して、世間の知恵を備えた生命体が「この女性のもとに生まれたい!」「このママがーこの家がー」などと、好きに選んでいることは有り得ない。
「貧賤家」のように極貧国の平民家庭に生まれることも、「邪見家」として戦々恐々とした夫婦や、夫婦ですらない男女関係の家、あるいは生まれてすぐ捨てる無慈悲な人や虐待する凶悪な人のもとに「幸せ」を願って生まれる人間は当然いない、誰もがそう思う。
なぜそのような家に生まれるかは、この「般泥洹経」などの仏典・お経に見るよう、生まれ変わる前の生命が半強制的に「罪業の報い」として決められる。
分かりやすく言えば、前世などで積んだ「業」の結果として、どの親の子供として生まれるかが決まるのだから「自業自得」という嫌味な言葉も、この解釈の上では「子は親を選んで生まれる」と同義語となる。

ネット上には「子は親を~」という語弊ある言葉をそのまま「仏教的だ」と軽口に唱える者がいるけれど、所詮は「輪廻転生」という教理だけを見て、そう唱える。
「輪廻転生」の思想はインドの仏陀出現以前からあるバラモン教やヴェーダ経典の時代にも説かれている(もちろん仏様がその亜流であるとは言わない)。

注意

  • 一方の私は、仏教の経文の上から具体的に論じた。
    仏教徒なら少しは、お経を披き、お経に依憑(依拠)した議論をすべきではなかろうか。

尊い親の教えを知ることのできる子供として、ありがたくも仏のみもとに生まれ合わせたのだから、これは人間として最上の喜びであり、仏道を歩ませて頂くことは無上の幸福であろう。
これは「自業自得の輪廻転生」の報いとしてある我が身において最も喜ばしく思うし、私を仮に見る者あれば、同じく仏教に出会った喜びを感じてもらいたく思う。

 
3. いつまでも あると思うな 親と金

「いつまでも あると思うな 親と金」という言葉も、今までの脈絡通り、「仏の存在とその教え」とを「親・金」に準えた比喩である。
冒頭に『「妙法蓮華経」で有名な、三車火宅や長者窮子や良医治子』…として示された「良医治子(ろういじし)」の喩え(たとえ話)に通じている。
この「妙法蓮華経・如来寿量品」に説かれた話は、おおむね以下の通り
 あるところに、子供たちがおり、その父親が薬を作れるお医者さんだった。ある時、子供たちがみな父親でない者の作る毒薬を誤って飲み、体を悪くして苦しんだ。子供たちのうちのいくらかの者が父親の言うことを聞いて薬を飲んだが、残りの者たちは薬を怯えて飲まないでいる。『良薬口に苦し』というように本能的に毒のように思われる薬の苦味を拒む。が、本当は『色香美味(しきこうみみ、色・香・味がよいもの)』で悪いものでないが、その子供たちは先入観で拒んだろう。その時、父親はあえて子供たちの元を去った。間もなく、『使(つかい、遣わされた者)』が子供たちに現れて子供たちの父が死んだということを告げた。実際は生きているので『嘘も方便(ある言動が世俗的にはだが真理において嘘や虚言という概念は存在せず仏の慈悲において方便となる)』である。父がいないと生きていけないはずの子供たちなので、その『慈愛ある(と子供たちに敬われる)父親』が唯一残した薬を、決死の覚悟で飲んだ。それで子供たちの病が治ったと聴いた父親が子供たちの元に帰ってきた
「妙法蓮華経・如来寿量品」の終盤で仏さまは「我亦為世父(私もまた世の父なのだ)」、「以常見我故 而生憍恣心(ずっと私を見ることで子供たちは調子に乗って…)」と、あらゆる人間の悪を戒めていらっしゃる。
仏教的な説明は、ここで控えておく。
仏教の言葉には、仏さま自身が詳細な説明を
懇切丁寧になさるし、後世の注釈書も多い。
しかし、世間のことわざ・諺には、ことわざの作者やことわざ成立当時の人による説明も注釈も無く、多様に解釈し得るという、危険性が伴う。

仏教徒であれば、世俗での定義を理解しつつも、仏教徒としての理解が大事ではなかろうか。
世俗で、「親と金=肉親と金銭」とに執着があれば、当然、それについて、愛着があり、失われれば苦になる(因縁法・流転門)。
だが、もし執着が無い時は、それらが有ろうと無かろうと、それらに対する愛着や苦が無い(因縁法・還滅門)。
ゆえに、失われても困らないための努力が必要となるし、それを実現することが真の自立・独立(独り立ち)である。
仏という親・教えに依ってこそ、仏という親・教えからの自立がある(もちろん現世での信仰心は常に仏を離れない・故郷や親族を忘れない人のように)。


仏さまは、世俗の事物への執着を無くして、我ら衆生の苦を除こうと大願を立てられた、大慈悲のお方である。

まさしく、「主・師・親(主君・師匠・父母)」の三徳をお持ちになる。
私たちが「親たる仏」の教えを学び得て、「財産たる健全な思考能力」が伴ううちは、真面目に日々を生きてゆかねばならない。
そのように、「親孝行=自分のための行為(情けは人の為ならず)」ができるうちは、努力を続けてゆく意識が、人生の肝心だ。




下人・横野真史著 原案: 2015年9月3日 初稿: 2016年1月22日





http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n373466


醤油(しやうゆ)」と「醤(醬、ジャン)」の関係


2015年2月、スーパーの弁当に付いている醤油の小袋に「しょうゆ」と書いてあるだけで知的な興味が沸いた。
"しょうゆ"の歴史的仮名遣いは「せうゆ」か「しやうゆ」かと即座に疑問を持ち、「しやうゆ」が語感としては正しいように思い、仮説を立てた。
そして調べたところ、「しやうゆ」こそ正しく、「調味料のさしすせそ」の「せ」に列せられる「せうゆ」は何故か浸透した誤用だそうだ。
(「せ」に該当するものが他になく、考案者が便宜的に改変して混ぜた可能性もあるが)

どちらが正しいかは答えが出たが、それだけでは私の探究心は止まらない。

「なぜ、"しやうゆ"の方が正しいのであろうか?」

合理的な理由があって然るべきところであろう。
しかし、2015年2月当時は、そのことをいくら調べても、私が求めた答えとは些か異なり、「醤」の字の成り立ちから「せう」よりも「しやう」が正しい、とあるのみであった。

そもそも歴史的仮名遣いであるとか、字音仮名遣いということが当時曖昧な認識であった。
どうしてその仮名の表記が成立したか、漢字の音読みとは何なのか。
より本源的なこと(伝来や日本式の読みの成立経緯など)は知らず、本質的なこと(日本と大陸の音韻上の相違点)は区別がはっきりしていなかった。



 2015年中の勉強によって速やかに答えを知る

では、ストレートに本題の解を示す。
「醤油(しやうゆ)」の「醤(醬)」という字はなぜ旧仮名が"しやう"であるかといえば、現代中国語や韓国・朝鮮語で「ジャン」という発音がされることから推定ができる。
この「ジャン」を中韓それぞれ綴ると、中国語ピンイン"jiang"、韓国ローマ字"jang"となるが、現代日本でも単に「ジャン」、あるいは「コチュジャン」などといった調味料の名でその読み方が知られる。
"jiang"か"jang"に類する発音を、上代・古代の日本人が聞き取って表音文字に転写すれば、先の字音仮名遣い・歴史的仮名遣いの"しやう"となる。
"jia"や"ja"は「ジャ=しや」として、「"ng"=軟口蓋鼻音」はその字音仮名の特性上、"う"とされるため、歴史的仮名遣いなどでは"しやう"となる。

まったく、ウィキペディアンほか多くのサイトの人間は、「歴史的・伝統的」ということ固くて融通の利かなそうなことばかりに念を押さず、私のように音韻学上の理論から噛み砕いて説明すべきものと憤懣やるかたなく思う。

とにかく、仏教を学んでいる身としては、経論釈の書を読んだり、声に出して読経をする上でも、「この漢字・熟語はどう読むのか?」、「なぜこの読みなのだろうか?」といった疑問は蓋然的に生じてくる。
言語・音韻理論の勉強は二の次であれ、多くの学問の中で重要な立場でもある。
ここに、「中古音・上古音」と呼ばれる、中国大陸での古い発音を学ぶ必要がある。
ただし、これを主として学ぶと、本分であるはずの仏教から外れた本末転倒の状況に陥りかねないので、疑問に思ったときにすぐ解決できる方法を示す。


方法

  • 英語版Wiktionaryか中国語版Wiktionaryのアドレスにおける/wiki/以下に、任意の漢字を入力してアクセスしよう。

英語版URL   http://en.wiktionary.org/wiki/○

 
1.jpg
任意の漢字のページにアクセスしたら、以上の画像の箇所を探す。
英語版Wiktionary「醬(醤の旧字体・繁体字)」の場合は、"Middle Chinese"や"Old Chinese"と名の付いた欄の[Expand]箇所をクリックすれば、上古音や中古音の発音記号の項目が展開される。
漢字によってはその箇所が無いこともあるが、多くは日本新字体などがそれに当たるので、その場合は繁体字のページにアクセスすることを推奨する。
発音記号の読み方などは、また解説すると長くなるので略説する。

例えば、"ŋ"という文字は、"n + g"が結合した発音記号である。
前述の「"ng"=軟口蓋鼻音」と同じ音である、と見てよいから、字音仮名遣いでは"う"と表記されることが多い。
ただし、現代では"jiang"や"jang"が「ジャン」となってしまうように、"ン"として取られる。

「醬」はBaxter-Sagart式における中古音が‹ tsjangH ›とあるが、現代流の仮名で発音を表すと「ツァン」であろうか。
余談だが、末尾の大文字Hは四声(トーン)を表す記号のうち、「去声(平仄では仄に含む)」を意味する。上声であれば大文字Xが用いられる。
上古音の方は/*[ts]aŋ-s/とあるが、これも「ツァン」となる。
ご覧の通り先述の"ŋ"という文字が語末にあるため、旧仮名では「つあう」、もっと他の例に則った表記では「ちやう」となるので、これが現代で発音される場合「ちょう」となろう。
必ずしも噛み合うわけではないが、上古音や中古音を元として、歴史的仮名遣いを割り出すことは的中率が高い。
これで「せうゆ」といった間違えは踏まずに済むであろう。

最後に注記しておくが、日本における漢字の読みには呉音・漢音・唐音などがある。
呉音と上古音は共通性が高く、漢音と中古音は共通性が高い。
唐音は現代中国の普通話に似た特徴があるが、これも細かい理論が自分の中で構築されているので、ここでは話を止める。
いずれにしても、旧仮名が気になったら私の方法で調べると、音韻上から法則が成り立つようになる。
その逆も、ね、ああ乱文気味に・・・



2016年1月22日 秘儀を残す
※紹介されたウェブサイトの仕様は後で変更される可能性がございます。







「収入」とはオマケ・副産物であり過度に目的化してはならない


緒言

  • いきなりですが、この表題を基に本論を著す私は19歳・職歴なしの中卒ニートでございます。「無職即聖職・非人即聖人」と胸に決意しながら、一般的見地には「狂乱の拙論・暴論」を著して参りますので、ご高覧いただきたく申し上げます。

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 夢のあり方

さて、みなさんの子供のころは、どのような大人に憧れましたか?
自分のお父さんのように、お母さんのように、あるいはお金持ちやそのお嫁さんとか・・・ではなく、具体的な職業、一般に「将来の夢」と称される類の質問をされたら、どう答えたと記憶していますか?
何らかの職業の名前を挙げる際には、強弱あれ意思や願望がそなわっているはずです。
美味しい料理を振舞いたいとか、困った人を助けたい・病気の人を治したいとか、いやいや偉い人となってみんなをギャフンと言わせたいなど、そんなところでしょうか。

しかし、冒頭にあるよう、いわゆる現代っ子というか、俗に言う平成生まれだかゆとり世代だか、に該当する私はどうであったか?
泡沫の如く憧れては興味が逸れた小学生時代、アレもいいコレもいい、と。
具体的には漫画家・お笑い芸人・科学者・ラーメン屋など多種多様ではありましたが、それはとても「夢いっぱいのお子様」と単眼的に楽観視し得るものではありません。
両親も、金稼ぎのための職業をし、教育はド下手であった影響もありましょうが、同じ世代の子らの誰よりも、その「移ろいやすい」性質は強くございました。

中学1年生の開校ウン周年記念冊子における「将来の夢」項目の記入
「年収1000万円」 (金額だけ書いた人は私だけ・・・)

中学進学以後、社会的思考能力の高まりに比して、いわゆる「即物的・唯物論的」に物事を捉えるようになるや、サラリーマン・弁護士・公務員(お役人)などの無機質なものを志す傾向が強まり、あわよくば政治家として大成して名利を恣にせんとし、大いなる邪心をも生じておりました。
知恵はあり、知識は吸収し、ということは良いようでもありますが、一元的な取り入れ方では、「現代的合理主義」が増長することとなりますし、当時の私は特に学習環境や家庭環境で疎外が顕著化するなど、不遇な身の上でありましたので、現実主義・合理主義に傾倒しました。

ご覧の皆さんは、以上の話で実感が沸きませんか?
今の私は、かえって宗教や哲学などの思想を研究するようになっております。
もちろん教団や機関に所属する意向は無い「市井・野良・在野」のままに・・・




 現代の職業観・・・金銭の為にすれば職業は形骸化する!


およそ「将来の夢」とは、近年世間が憂えますよう、どこか安定した職種を志す子供たちが多くおり、それは「現代的合理主義」の気風から、その志が生じているように思います。
具体的な職種は、サラリーマン・弁護士・公務員、少し大きいものでは政治家などです。
「広義の公務員」ならば、教師や警察官など、まだ子供に適切なものがありましょう。
1000年以上前の中国では、官職を志して高位・高座に就かんと、憧れもとい野望を懐くことは多かったようですが、それは当時の選択肢もとい視野が狭まっていた時代背景に起因しております。
為政や処世を基盤とした教えである儒教などを根本思想として、中華思想など(もちろん左記の思想の一辺倒と言いたい訳ではなく仏教など他所の思想も「自己流」で受容していった)、現代中国は「儒教道教の徳」を忘れた「共産主義の欲(貪欲・強欲)」という点で正反対のようですが、私見では現状変わらず、思想面の色違い程度でしかなく見えてなりません。

一方で、現代日本はスポーツ選手だとかパティシエだとか宇宙飛行士だとかと、「ありがち」ながら子供として「あるべき」夢を持つ選択肢はいくらでも存しているにもかかわらず、今の有様であります。
日本のスポーツは多くの競技で好成績ですし、パティシエという菓子作りひいては食文化も和洋問わず評価が高く、毎年のように日本人は宇宙に飛び立っているではありませんか。
いずれも、日本のキッズが憧れて然るべき職種といえましょう。

職業というものは、それを望むにあたり何らかの意志が必要になりますが、主にその根源は「欲望(金銭欲など生活安定・名誉・モテたい等)」か「願望(作業意欲)」のどちらかとなります(「望む」ことが前提であるから無理やり就労されるケースなどは除く)。
その仕事をさせてもらえる機会が得られるならば、タダ働きさえ買って出る人もいることは、ボランティアなど慈善活動(裏事情はともかく)の人々が好例でしょう。
繁盛しなくても、自分の料理を振舞いたい、食べる人の笑顔に触れたいから、温もりを与えたい温もりに包まれたいなどとして料理店を営み続ける人もおります。
もちろん、なぜそういった人々が利益を得られずしてそれを続けるか、全くその感情が理解できない人も現代には増えていることと察します(少し前までの自分がそうだが、「理解」はできた今でも真似をしたいとは思わない)。

そういった「自己犠牲」の姿勢が理解できなくて厭うにしても、身の丈に合わない金銭を得ることに狂奔することはなお、よくありません。
貢献的自己犠牲は厭うのに、金銭を得るための自己犠牲、すなわち触法行為は厭わない人が、現代に甚だ多く存在しましょう。
即物的な利益、給与という形を得られなくてもよい、とまで言わずとも、金欲しさから悪事に手を染める、例えば処方が制限された薬を不正に大量転売する富裕のお医者さんなどは、その職種の人間としてあってはならないことと憤りを覚えます。
こういう風に、本来は人助けするであろう立場でありながら、必要以上の金銭に目を眩ませてしまうと、その職権を有した者にしか行えない悪事を働いてしまうのです。

肝心

  • 先述の「願望」からその職を選んだというのに、金が入るようになるとますます金を求める「欲望」が強まる人は多い。
    本来、収入など、その職を続けて得られる「オマケ・副産物」であるべきなのに、職の継続意欲よりも収入確保が目的意欲となって職を継続してしまえば、本末転倒となる。
    あるいはそもそも、「医者とか国家資格必要な職種って高収入じゃね?モテんじゃね?」という不純なる「欲望」の動機からその職業や資格が人気となるならば、もはや「道」を忘れた非道外道の民に満たされているであろう、この国を憂えるしかない。
    否、中学生の頃の自分こそがその典型例であった。
    ただし、古来人間は自分の生活の糧として「生業」を持つものであるから、生活に窮してしまわぬよう最低限の金銭などを要した「欲望」の動機は受容する。
    問題は、先まで上げた諸々の例のように、身の丈に合わない「欲望」か。

「利益を得るという行為」は、同時に「他へ還元する必要」が、この現代社会に存しております。
税制などはその一端であり、一定額を超えてから贈与税や所得税などが発生するように、誰かが莫大な利益を得たまま独占することは許されません。
「富の再分配」と言い、税制などが形式的でもそうあるように、日本など先進国は貧しいアフリカやアジアなどの途上国を恒常的に援助していく必要がございます。
「恩返し」という、即物的見返りを求めてはなりません。
ただし、真っ当な国ならばきっと日本の恩に報いてくれるはずでしょう(国交正常化以来中国への多額投資、民主党の対韓通貨スワップ・・・)。
国内であっても、年金制度や生活保護制度といったものは、現代の民主主義などにおける根底の原理として先進国的通念(富の再分配など)があります。

昨今の欧州が、中東など紛争地域の難民を積極的に受け入れていることも、嫌々行う場合もありましょうけれど、嫌でもやらねばならない理由、集団の義務があります。
自国の事情を顧みず、難民を受け入れ続けるべき宿命が、欧州諸国に付きまといます。
先進国だからと、悠然として安逸に浸るのではなく、欧州の威厳を保たねばなりませんので、例え国内の治安が下がる(直接難民が犯罪をするか、間接要因では国民の反発で国内デモや難民襲撃など)としても、こういった人々を受け入れる先進国の自己犠牲が窺えましょう。
もちろん、国際社会の通念上そうした姿勢を保つのみならず、本心から哀れみがあってそのように援助していることもあると、私は信じたく、でなければ間もなく国際社会が暗転しかねません。



欧州云々は、利益の独占の不当性などを知っていただく一例として挙げました。
兎にも角にも、現代的合理主義や、功利的即物的な考え方は、現代の日本人に老いも若きも根深く植わっておりましょうから、今一度考え直す機会を、本論をもって提案します。
かかる魂胆より恐縮ながら本論を著した次第であります。



 最近の汚職事件に事寄せて

最後に時勢ネタにお一つ触れましょう。
最近、週刊誌の告発報道を発端に、現内閣の閣僚の一人がC県の建設会社から平成25年11月に現金50万円を受け取っていたとか(秘書は同500万円受け取り300万円を私用に使う)との事実を認めて閣僚から退任、という汚職事件がありました。
当人の辞任は、本論を著したつい前々日である1月28日のことです。
まさしく政治聖職は地に落ちて汚職する、このような徳を失える人が多くいることは、政治家だけでなく、先のお医者さんなど、現代日本で普遍的な実態でありましょう。
お金が欲しくて、ということを追究するとみな職権のもとに陰なる悪事へ手を伸ばします。

なぜそこまでして金銭を得ようとする人がいるか、不可解の極みに存じます。
私腹を肥やすとかというのではなく、趣味にでも当てるつもりでしょうか?別の事業の資金とするつもりでしょうか?
個々のケースにおける、当人らの金銭の使途想定に詮索の余地はございません。
仮に、私的な趣味や別の事業への想いが強ければ、その職業でいる必要は無くなりますが、その職業でい続ける必要性が高ければ不当な利得を欲さず、自制をかけましょう。

ところで高給について

  • 私はTV局員や公務員や政治家のお給料が高いことに異議を挟む気概は全くございません。なぜならば、それらの給料を減らすことは合理的のようであれども、やはりそれらの職業には高給利得というトリートメントが必要に思います。合理性だけでは世の中が維持することは無い、人間だものロボットじゃないもの、という道理でしょう。もっとも、そのせいで汚物が濯がれず、なおも発生・堆積が進んでしまいかねないのでしょうが。不正な政治献金しかり、政務活動費(政務調査費)不正受給などの某H県議員なんかその好例でしょう。

くれぐれも、余分な富を貪ろうとしてはならないこと、重ねて有職者らを誡めます。
誇っていた名誉名声も、利益利潤も、水泡に帰すること是の如し、ですね。

聖人は、お金を貪りませんし、況やそのために身を挺したりはしません。
誰か人間に見られようと見られまいと、「諸悪莫作・衆善奉行」と自律します。
「悪事は露呈・発覚しなければ好き勝手してもいいんだ!バレなきゃいいんだ!」と思ったところに、大いなる陥穽を伴うこととなります。
仏教の観点から言えば、今の日本人はまず、「少欲・知足」という「八大人覚」のツートップから知られたく思います。

※私は法華系の信奉を持ちながら、禅家が重んじる言葉ばかり引いてしまいました。否、「法句経」、「遺教経」などお釈迦様の説ではありませんか!



2015年2月・聖職観に覚む
2015年10月・原案を起草す
2016年1月30日・本論を著す




当記事補: 重ねてこの旨を述べるにあたり、かなり別の話題から展開する。

各々の努力の中に、結果として勝利もあろう。スポーツとは、勝ち負けの競争や賭け事の世界ではない。そのような修羅の道であってはならないし、臨む者達も勝ち負けに縛られてプレーすべきではない。各々の努力による成長こそを尊重すべきである。勝利と栄光と名声と報酬などは、その「印」、オマケとなる。

正しく道を行く人たちは、勝敗という「印」を等閑視しないため、努力を客観視する上で重視こそすれ、絶対視もしない。勝敗を絶対視すると、勝利後に相手を見下して「屁のツッパリにもならない」などと、人の健闘を軽んじて冷徹な言葉を吐き得る。諸々のファン共が目を瞋らして相手に「負けろ!」と呪い叫ぶこと、悪鬼修羅さながらであり、これが外道たる修羅の道である。自分が応援するチーム(地域などに縛られる)の対戦相手か、自分の憎むチームに、その子供でもしない罵声を口にし、あるいは軽蔑を心に起こす。是くの如き修羅の気質がプレーする者に生じたり、ファンの目を気にすれば、予て勝ち負けを案じ、勝った負けたと一喜一憂してその時その時に苦しむ。

正しく道を行く人たちは、
負けたときは道を歩み足りないと顧みる。幸いにも勝ち続ける者は、どんな志でも、ただ勝ったのみに道を止めずある。私は「自己を修養する道」をスポーツには求めないが、これは学問などの道の全てが同様である。道の途中でお金や名誉を得ることは単なる「印」、オマケであり、拾得物に過ぎない。今の人は成功主義・即物的であるから、本末転倒に走ってしまう。

私の
本心では、スポーツに関わる人、特にファン全般を蔑視しているが、スポーツ自体は修養の道の一つとして尊重はできる。また、スポーツを修養の本道として真剣に挑む者達も尊重できるが、スポーツ自体を賞賛は出来ない。一元ではない双方の尊さを一概に分けて語れない。

勝てない人が卑しい根性で唱えるところの精神論だ、と嫌ってはならない。正しい道を示す指針とせんが為に説く。そして外道を具体的に指弾する。勝敗に拘泥しないばかりか、そもそも勝敗を知らず孤高に道を行く私は、無我夢中に飽くなき探求の精を出す。世間の迷いを離れた徳とはこれなり。楽しく道を行って道を外れず、気付けば知らぬうちに素晴らしい場所に到っていることがある、しかしゴールを定めず。

勇躍の足、自ずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し。これが道のあり方か。





若者・青少年の右傾化に比して中高年は共産党支持者が増えていませんか?
彼らニワカ共産党員って、日本共産党(JCP)の党是というか、歴史というか、より根底にある共産主義に一分でも理解があるのでしょうか?
それとも、安倍さん嫌いの風潮において常に反体制的な共産党の主張(現在のことだけ)にかっこよさを覚えて一時的でも支持したい、といった気持ちから支持しだすのでしょうか?
私の母がこの一例です(2014年12月・しんぶん赤旗購読開始→翌年3月解約、やはり肌に合わない)
http://lesbophilia.blogspot.com/2014/12/blog-post_27.html

母を始めとしたニワカ支持者は、マルクス経済主義・社会主義など、根源の思想には微塵も興味を持っていないでしょう。
私による中国共産党の概説→http://lesbophilia.blogspot.jp/2015/06/blog-post_21.html

どこかの政党だけが正しい、ということは全くありませんね。
むしろ、どの政党も私には汚れて見えます。
もっとも、特定政党のみを支持したがるセクト主義に対して、極端に政党依存しない人も無神論者的に裏返しとして同様のレベルに陥ってしまいましょう。
ですが、実際にどの政党も何らかのきっかけで離党したり解党したり、利害の一致から烏合の如き結党したりと、移ろってばかりで不安定です。
そんな中で共産党はまだ信念も一貫性もあるほうでしょうが、その信念だって誤りあれば、貫き通されるほうに弊害が生じます。
今度の民主党に形骸・維新の党の野合なんか、誰の目にも馬鹿馬鹿しい猿芝居にしか映りません。
共産党もとい共産主義とは本来いかなる経緯があって、将来をどう望む政党であるか、現在の体面であっても詳細に検分すべきですが、私のようにより広い視野で精査しなければ、母のような迷える人間同然です。

本題のごとく、インターネットの中高年層を見ていると、異様な左傾化が見られますので、この辺は客観的にどうでしょうか?
恐縮ながら私自身の話をしますと、2010年・中2のあたりでネット右翼(ネトウヨ)化しましたが、2012年の中学卒業までには右翼も左翼も、政治(政治家の話題)・外交(自国や他国のネタ)に血眼のネット勢力はみな愚昧に見えてきて、自分は物の見方が他人と異なって常に高尚にあるべきである選民思想から、2chニュー速系などから離れた経緯があります。

先述の通り、中道を徹底しすぎる人も裏返しでセクト主義・極端なイデオロギー固持といえますが、やはりもう少し右翼も左翼も「この思想が!政党が!」というセクト主義を離れるべきであると思います。
でなければ何度も過ちを犯します。
人間は誰しも誤りはありますが、改善しようと努める・予防する能力もあります。
それができず同一徹を踏む愚鈍な政治家・政界と、有権者・インターネットは変わりどころがありません。

補足
本文正誤
烏合の如き結党したり→烏合の如く結党したり(如き結党をしたり)、猿芝居→茶番劇

本文に書かなかった雑感↓
昨今聞かれるような選挙権・被選挙権・参政権・投票権などの下限年齢を18歳に拡げるだとか、表面的で小手先の制度改革とかを論議するよりも、やはり政治家ひとりひとりの内面から改善すべきでしょう。
腐敗している政治で、どの政党も政治家も下らない人間ばかりに見えるか、無関心の人すら多いというのに、権利の対象だけを拡げたところで政治がどう改善しようか、と疑わざるを得ません。
私は投票所に赴く足というか、外出をしない人間、社会的には下人とされる部外者のような者であり、そもそも政治自体も門外漢で興味すらろくに持っていませんが、選挙や政治への関心低下とは、多くの日本人に言える普遍的事象です。



mainen01さん 2016/3/10 5:40:25
 
意訳: 信頼できない政党(セクト)という枠に囚われたままでは、集団離党だとか政権交代だとか、泡沫の如き結党・解党(雲集霧散・離合集散)の連鎖など、過去の愚かしき轍を踏む結果を繰り返すに過ぎなくなる。

有権者も有権者ながら、政治家も、政権の安定と政策の変革という二つのバランスを重んじ、有権者はこれをよく検分し、「どの政党なら良い・正しい」というセクト思想に振り回されず見極める。
今の形骸化した日本の政党のあり方からすれば、党是やイデオロギーを如実にした政策と、その理念を貫く政党など無に等しいため、特定の政党(セクト)を自身のイデオロギーを前提として信じきろうとすれば、齟齬は必然的に起きる。
更に政治家の立場ならば、汚職だとか発言だとかで揚げ足を取られぬよう、徳を以て欲(不正な金銭取得の源)と慢心(不適切な発言の源)を抑えることで自律する。
これで既存の政党であっても、自ずと正しい思想を得て一貫性ある理念に目覚める。
ただ、みなが同じ思想を掲げる状態を良しとした全体主義(一党独裁・寡占支配の中・朝など)の如き画一性ではならないから、共産党ほか少し偏ったイデオロギーを主張したり歪んだ理想を是とする政党(特定宗教団体お抱え政党など含む)も、必要悪の存在として維持してほしい。
多様性をも尊重し、議会制民主主義として完成形に近づく。

ああ、それは人間という愚かな存在には叶いっこない夢想に等しい愚考か。
一個の共同体に属する者すべて一様に賢くなどなれる道理はない、人間だもの。
ましてや、増えれば殖えればそれほどに愚民化する法則がある。
それこそみな優秀なる画一性に至れば、最後は「人類ロボット化」などという極端な社会主義に陥ってしまう。
権利無き19歳・下人による机上の空論でした。。。



オマケ・某党機関紙の欺瞞
反安倍政権を謳って2014年の解散総選挙の折に急激に部数を伸ばし、母も購読した某党機関紙(以下A紙)であるが、実際には労組(労働者?)や農協(農家?)の集会・デモ・抗議活動に関する報道がトップニュースを占めている。
それも「現役の労働者・農家」と胸を張るには少し頼りない高齢者ばかりが多く掲載写真に写っている。
彼らは、いわゆる団塊世代から終戦前後ほどの世代に見えるが、やはり若いころに学生運動などヤンチャしていた勢いが余っているのではなかろうか。
このような無味乾燥、というよりも殺伐としているA紙面は、当然母などニワカ党員に馴染みがたく、共産主義を知らず信ぜずいるならば関心も当然なかろうために、母は4ヶ月ばかりでA紙を解約したのであった(未だに反安倍だとかの関係で形ばかり党員として地元選挙区の広報紙っぽいものを受けている)。

ところが、このA紙のホームページ「私と『A紙』(88周年)」や「『A紙』の魅力」においては、A紙部数上昇の広告塔である「戦争法(法案)」「安保」「安倍(首相)暴走」「憲法(九条)」「原発」に関する情報を中心に取り上げており、あの殺伐とした集会に関する報道には言及していない。
新たな購読者を得るため、取っ付きやすい話題で占めている。
こんな欺瞞に惑わされて俄かに購読者・党員となった人々および予備軍の人々は、普段まともな思考を持たず生き、安楽を享受しているのみに等しいことを憂う。

安倍さんにも誤りがあれば、志位さんにも誤りはあろうし、ましてや「共産党とはどういうイデオロギーがあってその原理でどういう行動をするか」を知らないで、目先の安倍首相批判だけで共産党を一時でも支持しようなどと思わない方がよいと私は思っている。
その延長として、質問本文や当回答の冒頭に述べられる、今の民主・維新はじめ過去には多くの泡沫政党ほか公明党の遍歴(非自民連立政権→自公連立政権)日和見的な政治家たちの変わらない体質がある。
政治家と有権者、階級の上下あれば数もピラミッド的な差があるとしても、片方がああならもう片方もこうある、それは上も下も別々ではなく一体である、「対極のようでも切り離せない・どこまでも同じく比例する」ということで、私の学問では「而二不二」といい「本末究竟」という。
仏法という真諦は世間の俗諦にも敷衍できる、政治を学ばない私が書くところの論理は、仏法研鑽の延長にある。


質問した人からのコメント 2016/3/1 05:45:26
もっとも、私がネット右翼をやめてアニメなども見る頻度が減ってきた2012年中ごろはまだ、ネット厨房的な言論の動画を投稿していた。
この当時はまだ「右翼!左翼!」というしがらみに囚われていた。
http://www.youtube.com/watch?v=pMY1NkTi2ck

ところでネットを見ると未だに「左翼はバ○でもなれる・低○歴」だとか「右翼は低○入どころか無○」といった迷妄を極…





文明にとって将来、宗教とは廃絶すべきもの?消滅すべきもの?共存すべきもの?
宗教は現代の科学や社会制度の著しい発達と、資本主義などの即物的で合理的な思考の普及によって、今や衰微の真っ只中にございますが、例えば打ち上げたロケットの燃料タンクのように今までは宗教と共栄した社会が、今後は不要として切り離さねば、そのロケットは燃料切れの末に減速するか下降するように、社会や科学は進歩しなくなってしまう?
それとも、自動的に切り離されてゆく(自然に消滅しゆく)?
あるいは、今後も社会と共に歩み続けるべき存在でしょうか?

宗教の大いなる存在感、大小文明の興亡盛衰に与えてきた影響の著しさは歴史に明らかでしょう。
影響に好悪の別こそあれ、国家や文明の一翼として歴史に厳然と存していますし、文献のない集落単位の矮小な古代・原始的文明であっても祭祀や信仰は世界的・普遍的に行われ、まさに文明の発達には、前述の燃料タンクとしての大事な役割を担っていました。
しかし、現代人はそれを知っていようと知らずあろうと、合理的思考(極まれば左翼・極左思考)においては宗教の価値を認めないか、寧ろ排除・廃絶したほうがよい(マルクス・レーニン等は彼らの思想に準じた無階級社会の実現で勝手に消えると言う)とまで思う人も多いはずです。

こんな質問文を書いている私ですが、当然宗教の思想や伝統は、多文化・多様性の強調という上で必要に思っています。
何事も完璧に運ぶことは、個々人の単位ですら不可能だというのに、積極的に社会から邪魔とみなした事物を消す、そんな絶対暴政など誰にも出来ません。
インドから仏教を滅ぼしたイスラム教以外には歴史上に類例を見ません(徳川のキリシタン禁教も明治の廃仏毀釈も彼に如かず)し、独裁的な社会主義国家・中朝なども宗教の排除は不可能でした(中国は寧ろ儒教・孔子などに懇意である)。
ここまでは一般論のようですが、個人的な感情論としては、信仰も精神修養も、大事大事、というわけで既述の社会思想だとかは全て建前のようなもので、実際には蔑視しているほどです。

というわけで私は、仮初めにも教えが生きている現代に微かな光明を見出し、今後も社会と宗教の共存を大いに望みますが、多くの一般の方はどうお思いでしょうか?



mainen01さん 2016/3/11 13:49:26
 
【文法講釈】
タイトル中に3つある「すべきもの→助動詞"べし"」のニュアンス相違点
「廃絶すべきもの→この"べき"は命令であるため"廃絶せねばならない"の意味」、「消滅すべきもの→この"べき"は推定を強めた推断であるため"(必ず)消滅するであろう"の意味」、「共存すべきもの→命令の意味に最も近い」

【マルクス・レーニン(エンゲルスらの思想)について】
共産主義の理論を完成した者たちは「宗教とは忌むべきであるが強ち(強制的)に排除せずとも、提唱するところの無階級(プロレタによる全民衆をプロレタ化する運動)への改革の中で自然消滅する」と達観している。
共産主義は、中朝(エセ共産党・エセ労働党)に見る宗教弾圧や、マルクスの「宗教はアヘン(民衆の阿片)」発言を浮かべる人が多いが、完成した共産主義の理論においては、宗教の排除・弾圧といった運動をせずとも本来の重要な運動(闘争)を進めてプロレタリアート・労働者の社会が発展する間に、ブルジョワ・聖職者らの階級が自然と消えて宗教も滅びる、としている。
正統派マルクス論者らは、廃絶すべきものは宗教ではなく、階級社会・支配階級・ブルジョワであって本末転倒に陥ってはならない、と訴えている。
宗教を無視しながら、その間を取り入られないよう用心して革命に努める方法を唱えている。

なお、私が極左革命に対して懐く思いは、2015年10月11日投稿質問にある「理想の世界(社会)」を築きたがる仏教独学者らへの軽蔑と同様である。
私は諸宗教の教義を学ぶ姿勢と同じく、社会思想に関してもつまみ食いを続けている。
可能な限り、傍観者の論調で雑感を述べるのみとしたい。

それで、資本主義にしても、日本人的にニュートラルとなった社会主義・共産主義にしても、それらの思想が根強い現代社会では宗教=インチキ商売・時代遅れといった見られ方が普及している。
だから、進んで廃絶・排除を願う人々は「宗教法人に課税しろ!カルトを規制する法整備をしろ!」と叫び、人により「いつか勝手に消える・滅びるよ」と達観する。
一方では、それまで無神論的であった若年層(現代っ子)が新興の保守派となり、突如として神道を奉じることもある。
そんな中、私はインターネットを通じてカルトだとか反社会的だとか、あるいはイデオロギーに準じた好き嫌いの基準にも囚われず、真実の仏法を求め、微力にして懈怠懶惰のようでも研鑽を進めている。

ここ1ヶ月ほど、私の思考能力が鈍化しているようで、雑多となったり、より書く必要のあることを書ききっていないようだが、要は現代だからこそ、本当に優れた(勝れた)教えが、主観的なものさしであっても、そのものさしに適合した選択ができる。
ことに私のようなインターネット以外の世俗(金稼ぎ・即物的趣味など)に恵まれず、幼少から人よりも不遇な経験を積みながら人よりも優れた知能で人よりも思考を重ねているような人は、仏門に入る素質がある。
否、仏門に入れとの諭しを受けているものと受け止め、懈怠でも懶惰でも微力を尽くすつもりで学ぼう。

このインターネットには、誤った情報(人師の見解のみならず原典ある引用の誤字・誤植など)も多いが、元々知能がある人は世間に関する情報を正しく見極めてきてそれを自負しているであろう。
インターネットという道具に現代的合理主義を兼ねれば、いくらでも教義や情報の検証ができる。

私はそのように多くのサイトと多様な分野(雑談掲示板・2chニュース系・2ch専門・SNSなど)に関わっては厭い、放浪して定住するところが無かった。
リアルでさえ、5年と同じ家に住んだことは一度も無い浮浪者のような人生ではあるが、今はこの豊橋で4年11ヶ月を向かえんとする。
常に社会・世俗・宗教などと思考の遍歴が続く私は、知の冒険者であり、労働者であり、革命家ともなろう。
冒険者も労働者も革命家も、私を見れば卑下し、嘲笑するであろうが、釈尊は農夫に対して自身こそ誰よりも心の畑を耕して人々に心の裕福をもたらす真の農夫であると力説せられた(Sutta Nipata: 77)。
私(19)のような真正中卒ニート引きこもり諸兄はなお、この探求と闘争に連なって広く世の迷える同胞への啓蒙を進め、同志とならしめられたい。

14年間は故郷・埼玉県内をさまよい、豊橋に移って以後の上述の期間(4年11ヶ月)は一歩も豊橋の外を出ず、さながら籠山状態である。
思想においては仏法をついのすみかとし、今生の身は叶うならばこの家で安住してくたばる方がよい。
現代、ということに念を押す理由が思考能力の鈍化のためにここまで上手く挟めなかったが、要は仏教を信じるにも物見遊山で諸宗の大寺院参詣だとか、信条があるにも何箇所巡礼するとか、そういった遊行などの実践は前時代的で不要、といった考え方が私に薄らと備わっている。
ましてや外出が困難な以上、これを訴えたくなる心理学的法則・・・心理学など外道のエセ学問を弄せばますます仏法の精神に違ってくる。
既成宗教の教団に布施・供養・参詣して興隆を助ける、功徳いかばかりか、また在家・信徒として布教に及ぶなど彼の励行いな隷属を嫌う思想は共産主義の、支配階級・既得権益・ブルジョワジーへの反抗姿勢とも似る。

一方で、教団に縁を持たず個人で真面目に法義を研鑽することもよいが、現代の人が日本伝統の仏教にどんな理由であれケチを付ける思考(過度になれば大乗非仏説論でパーリ語経典のみ正統仏教と言い出す)は、やはり現代的な合理主義の影響は大いにあろう。
私は中1の時に初めて千葉・鴨川(日蓮大聖人出生地の現代広域名称)の父方の実家で聴いた南無妙法蓮華経のお題目を忘れず(両親は無宗教・実家は単なる墓檀家だから父は曹洞宗の駒大卒)、主に法華経と日蓮大聖人の法門を根本としながら、未だ余の教えも雑駁に学ぶ貧道にある。
だが、魔物を倒すためには魔物の性質を学ぶ必要があり、学ぶ課程でその目的を見失って魔物に魅入られない用心をしながら学ぶ範囲内であれば、これは大いに推奨する。
よって、仏教諸宗、宗教全般、社会思想といった分野を雑駁でも敢えて取り入れて吟味したく思う。

ところで、日本の伝統仏教は、法脈・相伝・授受というように教えの継承の正統性を重んじている。
イデオロギーでいうと保守的・排他的でもあるから、私のような現代的思想に些かでも汚れた革命的な思考(志向)は、その保守派から邪義・邪道と見られよう。
釈尊は仏と仏、仏と菩薩、師匠と弟子といった仏法の流れを説くこともあれば、師無くして法を求めたり出離する尊さも賞賛される。
私などは現世で人師を得られないうちは専ら自己の可能性・過去の仏・菩薩・高僧を師と仰ぎ続け、各条件も整って腹が決まればお寺など教団への関与も視野に入れても良かろうが、まず基本は「自室即道場」という姿勢に始まる。
今の形骸化・職業(家業・稼業)化した既成宗教・教団に対し、民衆の間では個々人が教義の学習に取り組むこともあるが、それで宗教に革命が起きるかは不明である。
それら既得権益者のごとき宗教家や教団を、現代社会の民衆が嫌う気持ちもわかるが、反面「しっかり宗教の本質を見つめなおそう!」などといった革命的宗教再出発・現代ならではの逆説的復古主義、といったムーブメントが起きても一興である。
なおも宗教を強く嫌悪する社会人様は、マルクスらの思想に入門してマルクスらの教義を弘めれば簡単であろう、さていかに。


私の2014年・新(真)ニート観「ネイティブニート」→ http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html
中1の時の鴨川葬式の件→http://lesbophilia.blogspot.com/2014/06/blog-post.html
社会派諸氏のための共産主義理論概説→http://lesbophilia.blogspot.com/2015/06/blog-post_21.html





真の「和」をお教えください。
日本の歴史を見れば明白でしたね、渡来人も土地に溶け込んでいます。
古来から様々な地方の神々が尊ばれる日本の宗教、外来の教えをも取り込み、仏教は強く習合されました。
十七条憲法の一に曰く「和を以て尊しと爲す」、聖徳太子は仏教を重んじています。
歴史学者らがどんな理由などを示そうとも、奉じる仏教を排斥する神道の派閥と戦い、神仏の差別を払い除けました。
このほか十七条憲法には和・仏教(大乗)のほか、儒教・道教の思想が随所に見られます(十七条憲法太子作への疑義や太子実在への懐疑はさておきまして)。

これで、同じ大和民族や同じイデオロギー(保守だとか革新だとか)などの狭い同志や同族に対してのみ「和」を言うのではないことが明白です。
関与しあうならば、人も動物も山川草木みな悉く和のうちとなりましょう。
右翼の人も左翼の人も、同じ民族同じ思想同じ宗教にのみ「和」があると思って、右翼の人はこれを喜んで左翼を攻撃し、左翼の人はこれを「異常思想」と嫌いますが、どちらも偏見による誤解でしょう。
そんな独裁的全体主義国家の中国や北朝鮮に類する思想であるはずはございませんよね?
戦前の日本は、西洋の思想(キリスト教の元に発展した戦争の火種となる科学・経済の合理思想)が流入して誤った神道(西洋合理主義で体系的な信仰)や誤った尊皇(天皇を最上の現人神とするなど)をしていましたので、仮に時の天皇陛下は心より世界(四方・四海)の安定を祈っておられたとしても、国家としては和の精神に遠いものです。

私は中道の思想を得られて喜ばしく思います。
誤れる思想を等しく責める「中道の革新」、誤りも正しきも尊重する「中道の保守」、いずれも具わります。
私の思想は中道であり、真の「和」を心得ていませんか?
この私は、他人の出生・性別・年代・身分・能力などを著しく嫌うことなく、むしろそういった隔たりをも尊重できるようになりました。
ただ左翼的な人が「差別ダメ!みんな違ってみんないい、人間だもの、平等」と能天気に唱え、それを聞くだけで得られるところの尊重主義ではありません。

社会思想を例にとって私が具体的な解説をした記事がありますので、気になれば以下も熟読の上、私は「和」を心得ているか、また「和」とは何であるか説法開陳してください。
正しい認識をもった上で、私の中道を批判できる右翼の人も左翼の人も、私は尊敬できます。
小中学生における唯物論やネット右翼などの思想遍歴も以下に披歴してあります。

補足
異なる思想を同じ国土に収めようとする強引な治め方は悉く失敗します。
日本は上代の神仏のみならず、中世までに南都六宗・平安仏教・浄土・禅・法華など様々な宗派・宗旨が生まれ、対立もありましたが国家たる幕府や朝廷としては受容しています。
「和」とは、「異」を異のままに尊重するものであって「異」を排除したり同化するものではありません。

異分子排除という急進的革命思想のごときものは、合理的なようでも「理・事」の相違性から「合理」は「違事(現実に乖離する)」してしまいます。
科学などに言う物事の法則は、想定的で表面的な真理を説くのみで、これに拘泥した「合理」が「違事」です。
私が具体的な理屈を弄さずとも、自ずと大和の人は気づいていたようです。

中国大陸・中東・西洋などは、あるいは中華思想、あるいはキリスト教、あるいはイスラム教などを配下の民族に強制してきましたが、まともに平和が続いたり国家の体制が維持した例など見ません。
何度、時の為政者が失墜したり、国家が興亡盛衰を繰り返したことでしょうか。
日本ばかりは唯一良心があり、第二次世界大戦で大敗を喫するとも、戦後は見違えるほどに仮初の平和を再建しました。



mainen01さん 2016/4/12 04:45:34

「和」の字義・語義とは何か。
「和」の字の成立に先立ち、楽器の音が調う意味を持つ「龢(環境依存文字)」という字があり、部首"禾"が通じる(龠は笛を表す)。
部首"禾"の穀物・農耕に由来する意味は、後の「和」の字において薄れる。
先の、「調う」意味に合わせれば、和音・調和・和合(多義)といった語句がある。
旁(つくり)である「口」で話し合いによる争いの和らぎなど、和解・和平・平和・講和という現代的な語句に通じ、そこから和らぎや和みの意味(温和・柔和)も発生する。
古代の日本人(大陸交流以前から言語が列島広域で通じていた)は自ら「ワ」と名乗ったと見られることは、現代でも「われ(我・吾)」の音に残る。
"ワ"は"ワ(輪の訓)"の意も持ち、後の日本人は、音韻の通じた和(古い中国ではhwaやhuaの発音)の字を自ら当てた。
「ヤマト」の音を「大和」とまで綴るに至った時代は、本来「邪馬台・夜麻登」などと音写された地名を二字にする際(和銅6年の好字二字化令)、便宜上これが作られた。



「自由」と「平等」は相容れない思想と言われる。
その説についての詳述を省くが、私見としては、確かに国家が自由も平等も国民に求めるようだと、これはダブルスタンダードに陥りかねない。
自由な生活の中から格差が生じて不平等となったり、貧富の差を埋める平等の経済政策で富裕層が財産を保有する自由などが脅かされることが例である。
フランスが謳う「自由・平等・博愛(友愛など)」とは、美辞麗句を並べた空虚な標語か、単なる欺瞞に過ぎない。

一方で、国家の理念に限らず、人類・民衆の一人一人が、本人の識見と意思により「自分および他人の自由」を尊重して平等に認めるならば、何ら矛盾することはない。
先のように経済に準えれば、己が貧困となろうと、誰かが富んでいこうと、それが自由であり自然であり、異議を挟まず関さず(ただし他人の自由を侵して富もうとする者は"悪"と見なして懲らしめる)。
尊重主義とはこのようである。
そして、これが現代の西洋的な「人権」だとかを知ろうが知るまいが、日本人が識っている本来の「和」である。

中世・近世・第二次大戦以後と、白人文明・キリスト教圏による文化・人種(民族)・宗教の同化・支配・侵略・淘汰、世界各地の社会主義(ナチズム・ファシズム・エセ共産主義など)国家の暴力的革命闘争・・・。
そんな人間的かつ暴力的な事績と「和」は、何ら共通しない。
文化・人種(民族)・宗教が異なるからと、その違いや隔たりを強引に同化するか破壊などによる否定をすることで、虚構の和を生み出すとも、久しく保つものはない。
強引な否定行為による「同」を前提とした虚構の和の造成は、急進的な手法であるから、一時は良いようでも、馴染むはずがない。
まずどんな違いも隔たりも「認める」ことによって次第に、自然とその溝が埋まってゆくのである。
これは対人関係や教育だとかにも敷衍できる理論である。
ただし、世間一般の類義の説は、「世界に一つだけの花」などのような大衆的なものなど、子供騙しに足りるとも言い難い。
あのような大衆的・現代的で、中でも左翼が弄する言辞は、むしろ人の反発を買って「和・尊重」への理解など到底及ばなくなる。



ところで、現代文明は来るところまで来た。
科学技術の貪欲かつ破壊的一面に、争わずとも事故などで死傷の害が身近であるから恐ろしいが、反面インターネットを通じて愚昧なる境涯の私がかえって具体的な論理を形成するに与った恩恵も大なり。
来るところまで来たから、仏教の少欲知足を重んじるとも、この文明を強ちに古代へ戻すとか原始人さながらの生活をするということではない。
この既成事実を覆して逆行させる変革もまた中道に背く、共産主義の急進的革命思想と変わりがない。
そんな極端な変革で、愚かな人間に平和も安定も得られようがない、機械のように利口に飲み込めば人間など不要である、しかし、人間はみな自由に平和に生きる価値が等しく存するではないか。
だから、今に至れば今の様相もまた「尊重」せねばならない。

これ以上、物質的な充足を求めたり、技術の飛躍的発展などを進めれば、今でも資源枯渇が叫ばれ続けており、80億もの人々がみな肥える平等資本を願うならば、優に地球一星のキャパシティを超過する(星外逃避の宇宙開発は天国思想の亜流、地球問題は地球に留めよ)。
「平和」と謳うわけだから、日進月歩のような一朝一夕で結果を出したがる成果主義・貪欲西洋文明の思想を抑え、みな心を休めて頭を冷やし、身を一所に留める努力が必要となる。
肥える人は徳を知って貪らず慈悲を発して貧ずる者に施し、そうして養われる者たちも身に余るほどに求めず。
技術は緩やかな進歩か維持でよい、日進月歩の技術発展は燃える欲望の裏返しである。
どうしても小手先の科学技術を進ませるならば、資源を補う・ゴミを増やさない新技術の開発などとなるが、当然それらは全民衆が質素倹約などの努力による心の技術と共にあってこそ、真価が発揮されよう。

西洋の業は深いから、近代から大戦以後の様々な因縁より、中東は乱れてイスラム過激派などが台頭して各地で猛威を振るうし、難民も大量に発生し、「博愛」や「人権」の思想を流布している張本人だから自ら体現すべく、積極的に連携して難民を救いつつ、テロ組織にも域内の治安を脅かされ、民心は甚だ荒んでゆく。
これを自業自得、因果応報と呼ばずしてどう呼ぶ、無私や自己犠牲の美談に非ず、宗教戦争も人道支援もキリスト教の業である。
現代ですら何の安寧をもたらすことのない西洋の科学主義や人権擁護とは、どこまでも平和に乖離した空理空論にしかならない。

日本は不思議にも、他国から著しい領土の侵害・軍事的侵攻を受けずに済んできた。
国体の象徴たる天皇陛下の、皇統連綿たる一事に顕然である。
すめらぎのほまれもたかくもろびとのたすけもあって
天皇の威徳と国民の良心が共にあり、この国体を久しからしめた。
上下は一体・不二、君主民衆一体不可分であるから、天皇は政治にも軍事にも干渉しすぎず、常に国民や臣下(ほか後の武士勢力など)の意思を尊重し、逆に国民もどんな不遇があろうと天皇への尊敬を忘れずに共存共栄の和を貫いた。
この事実は、私がいくら理屈を弄して言語を尽くそうとも、人の理解を促すには至らない。

大戦中の本土への奇襲、様々な合戦などの惨禍を経てきても、国としての安定は世界に類を見ない。
原爆投下も諸仏並びに諸天善神のお諭しである、仮に和を存じる日本こそが世界平和の導師たるべき責務を負う。
されば今まで以上に和を心得、平和・調和の先駆者として第一に国土の安定を得べしと思う。



なお、本文と補足の誤字
×尊しと爲す ○貴しと爲す(以和爲貴という原文を参照したのに凡ミス)
×想定的 ○相対的

本文補足の補足
どちらかが善でありどちらかが正しい、という二分思考(善悪二元論)の上で、その善や正義こそが絶対であり、それに従ってこそ「和」とする思考は、本来の「和」に悖る。
それで、自分たちの思想(宗教・イデオロギー)が正しいことを前提としてその「和」に当たる論理(理想の実現)を構える、これが今ままでのイスラム教・キリスト教、西洋思想に毒されたネット右翼やネット左翼などの人々である。
あるいは武力で正邪を決し、あるいは下品な論争(諍論)で一方的勝利宣言を飾る。
和に違せるが故に愚かなるかな、智者は須らく厭離すべし。

私は、私の信じる仏法が私の中の一善であり正義だと考えるから、一応はこれを勧めるも、嫌ならばそれも構わない。
これ以上に言うこともない。



最後に、過去の質問・回答にも書いたことを再度述べる。
この回答で、悪者扱いされたような諸々の思想なども、当然尊重する。
互いに「和・尊重」ということや、その思想なども理解したうえで、その思想などに従うならば私はいくらでも尊重できる。
だから先月の3月1日の自己回答では「共産党ほか少し偏ったイデオロギーを主張したり歪んだ理想を是とする政党(特定宗教団体お抱え政党など含む)も、必要悪の存在として維持してほしい。多様性をも尊重し、議会制民主主義として・・・」云々とある。


質問者 mainen00さん 2016/04/12 18:35:32
補足の「異なる思想を~」という一文、後で見返して自分でも一瞬、目を丸くした。
意味が通じづらくなりかねない。
言いたいことは個々の本文と同じである。
「和」の国・日本に対し、中華思想や西洋文明の歴代国家や西洋思想の影響を受けた近代以降の国家などがどうして歴史的に異質であるか、根本的な思想の相違から説いている。


質問した人からのコメント 2016/4/12 18:37:52
それでは、ここで「和」の枢要を抑えなおそう。
和とは調和である。
調和とは異なりあう事物同士の共存共調協調から初めて成り、その異なりを認め合えば自然と似てくる(合わせる・同に向かう)こともあろう状態を指す。
そして、この和は誇張のようだが日本特有・日本人固有とも言える。
この和を再び自覚するなど、正しい日本の心を呼び覚ませば、運命は開かれようと思う。
観念論に非ざること史実に詳らかなり。


当記事注: 「和」とは日本人が本来、知識として知るものではなく、感性より自ずと得ているものであるが、現代の日本人は「和の本有」に欠け、ただ日本国に生きる日本人の名のもと、理性に依って体得しやすい程度である。某宗風に言えば「日本人である理即」と「和の真義を知ることによる名字即」の「和」民族である。繰り返すが、古来の日本人は生まれ育つ過程で「和」の具体的な意味を聞くことなく、自ずと体得しているはずである。

「和」は、この世に様々な差別があるからこそ、それを認めて乗り越える思想であって、左翼が求めるような差別を無くした状態が前提とはならない。無差別・平等の状態が前提ならば、「和」の思想はただの虚妄となる。古くから貴族や庶民の階級だとか、貧富の差は消せるはずもなく、人間の力のみで平等を成立するなどはありえない。「和」とはただの理念でなく、日本の土地における根底の原理であるから、こういった形式上の差別が必然的に生まれて無くせないからこそ、その形式上の差別を互いに認め合って尊重し、不平不満を抱かず、精神面で彼我の差別を生むことがない。形式上の差別自体がなくならずとも、伴なってきた諸問題は自然と消える。

急進的思想は日本人の道にあらず、何事も「"ミライ"は待っても来ない、自分で掴むんだ!」などという空言を構えれば自滅の道である。近代の西洋の誤った思想がこれである。そのような軽薄な思想が世に流布して久しく、多くの人は同調しているようだし、私としてもその思想は尊重したいが、発端や特異性を知らない人もまた多いから、釘を刺しておきたい。本来の日本人は日々にささやかな願望のもとに努力を続けて自然と満足が得られる。その満足も、中世以降の西洋のような強欲の野望の満足ではない。強欲なだけでもおぞましいのに、それを進んで掴みに行こうとする、これが近代の西洋の急進的思想である。その上で、明治維新や富国強兵、国家神道に軍国主義は、あの時代にあって自存自衛のやむを得ない手段だったかもしれない。当時に武力を取らず、真の「和」を維持し続けて他国と平和的にやり合う術は、非常に困難であったろう。先人らが辛酸を嘗めてきたおかげで、仮の平和に与る現代では、真の「和」を復興し得なくはないが、この復興運動も明治以後の復古神道のように西洋思想に毒されたもの(ここでは維新後の復古神道を指すが江戸期の復古神道についての問題性も後述する)であってはならないが、一応はこうして「和」の本義を広めてきっかけは作る。私も信仰を持ちながら、自然とこの道が極まってゆくことを願って今を生きている。

日本は今までに多くの悲劇と苦難を経てきたが、なおも皇室は厳然と在す。それは君主の家系に国家・国体ありきで「和」を維持せねばならぬ使命が日本に課せられているためと拝察する。mainen00質問文などに見るよう、西洋も中華も、王家や王朝が泡沫の如き興亡盛衰を繰り返した。君主と民衆が相重んじる「和」の国土を君臨させ、アメリカンな仮の平和ではなく、真の平和を諸国に先駆けて実現し、それを日の出でるが如く世界へ及ばす。実現すべき使命ある者の寿命は長し、あるいは死を以て使命を完遂するか、使命が無ければ早逝する。日本は未だ達成しない使命があるうちは種々の試練を受けるが、いつかは実現すべきである。ただし、人間の短い生と比べ、日本ないし地球全土はそのまま真の和国=平和国土となり、私の思慮が及ばない時間、衰亡なく安寧であろう。昔から日本の使命と可能性が謳われる。日蓮大聖人も、日本国が第一の妙法の広宣流布と西進・世界への波及を説かれた。天皇家をはじめ、日本の善神(ないし梵天・帝釈天など)の存在も重視し、自ら「日蓮」と名乗られたように、日本国の重要性を認められた。「和」による世界平和と「妙法」による国土安穏は教義上、共存しづらい点は私が悩む要素である。現代でも日本は大戦の惨禍や大小の災害が多いからこそ、その使命・宿命を挙げる者は神道・皇室・仏教など信奉の区別がない。現代人には眉唾のように思えようが、超越的な存在が課した使命の有無は問わず、その使命感を自覚するだけでも行動に先立つものである。

なお、「平等」の語に関しては上代の日本・仏教的に呉音や連濁を用いた読み方で、本来は仏教用語である通り、一切衆生悉有仏性・悉皆成仏といい、法華経第十にいわく「平等大慧」と、大乗仏教に通じるが、これを明治時代などに西洋思想の訳語に用いた先人の過誤を悲しむ。仏の利益する力や仏に対する衆生(あらゆる生命・動植物)の在り方のみが「平等」である。西洋的で左翼のいう「平等」は、悉皆成仏ならぬ国民皆兵など、危険な思想にさえ通じてしまいかねない。左翼的な空想上の平和や平等が、ナチズム・ファシズム・軍国主義と表裏一体である様を思い知らされる。反戦主義の活動家もまた、軍国主義の反動・裏返しであることを思い知った方がよい。繰り返すが、急進性は好ましくない。ささやかに願ったとき、自然と叶う。空想は実現しないし、実現しようと奮起すれば自滅する。近現代の科学文明は、不自然さを厭わないために多くの悲劇をもたらしたではないか、今なお途上国などは苦難が多く、地球上が生命の死滅の危難に遭っていることは自明であろう。この解決法はmainen01回答文に既述される。現代の姿も結果論であるから、和にしてありのままを受容する。

先のカッコ注釈に関連して綴る。江戸期の復古神道は、和の原理による四方神々の受容、そして仏教伝来以後の神仏の習合や儒教思想の取り入れなどといった既成事実の放棄と異物排除の過ちがあるため、形式だけ古来の真似をして根源である精神を否定するエセ日本である。根底の原理は絶対的であるから、真の「和」という精神を呼び覚ますことはよくとも、形式という相対的なものは「和」のもとでにいくらでも変容してきたため、それを敢えて古式に戻す必要はない。むしろ、その形式のみの復古が、かえって「和」の精神を蔑ろにするという大いなる過ちを生んでしまう。強ちに排除する思想の問題性や、和に悖る理由なども質問・補足文などに既述される。「古道」といい、根源である精神を滅して末節の形式のみを古来に戻すことは、本末転倒の所業である。人間が、表面的な知恵を超えた精神から神を感じる(無神論的にいえば観念から創造する)ならば、祭祀も信仰もその精神性によって決まる。精神が根源であることは明白である。神道が宗教ならばこの精神という絶対性を重んじよう。神道もまた「和」に則ることは日本と同じく質問文の冒頭にあるよう、史実に詳らかではないか。





mainen00さん 2016/5/5 05:24:10

池田大作さん極度に嫌っても極度に尊敬しても、仏教者の道義に適っていないと思いませんか?
一般世間(インターネット)に限らず、仏教を学んでいるらしい人々の間でも、池田大作さんに対し、やれ朝鮮人だとか朝鮮カルト等と噂をする者は多いわけですが、これは非道の言辞でしょう。
朝鮮云々自体の非難がそもそもここでは論外(否定はしません)ですが、池田大作さんに対して極度に嫌う連中は仏教をしっかりと至心より学んでいらっしゃいますか?
教義の表層を学ぶとも、心を得ているように思いません。
一種の潔癖症であり、これをセクト主義と名付けます。
逆に日蓮正宗のように、謗法厳戒などの教義的な根拠があれば、それは良いでしょう。
※それに託けて感情的な批判をしても問題があります、例えば痴呆だとか精神病だとかと非難する者は外道の極みと存じます。

かといって、創価学会員・SGIの如き絶対的な尊敬や忠誠も、全く末法の一凡夫に過ぎない人間を尊んで何か詮があると思いません。
やたらと一人の人間(末法の一凡夫)を尊ぶなどもまた非道の妄信でしょう。

私自身、冒頭の通り、池田大作さんはすごい人だと思います。
大学などの勲章をかき集め、多くの外国の著名人(識者だとか)と「対話」を行い、ことに日中国交正常化の橋渡しを行ったり、周恩来さんと何度も面識があるなど、常人には真似できませんから、感服します。
ですが、尊敬は致しませんし、そのような行為を手放しに誉めるものでもありません。
また、実質的に「(客観的な意味での)世界平和」へ貢献していると看做し得ません。

とまあ、これが私の見方、愚生の管見であり、仏教の心を知る毎にこのような思考が自ずと育まれましょうに、多くの池田大作さんを知る人々は、やたらと嫌うか、やたらと尊ぶものです。
この二極構造を見るに、創価学会の取り巻き・信者・脱会者はみな非仏教の現代人と看取いたしますが、これまた愚生の狭隘なる管見でしょうか?
愚生は齢若干にも満たぬ浅学の徒(教団無所属)です。
繰り返しますが、朝鮮云々(成大作説)に関しては否定も肯定もしませんし、事実ならば事実でよいので、ここでは論外と致します。

補足
質問投稿時、とある作業に追われて腰痛や肩凝りのほか、疲労が溜まっていたため、色々と誤変換や脱字がありました。

>池田大作さん極度に~ → 池田大作さん"を"極度に~
>愚生は齢若干にも~ → 愚生は齢"弱冠"にも~


mainen01さん 2016/5/12 07:21:32
 
いきなりの脱字は不覚であり、慙愧に堪えない。
冒頭の一文>池田さん"を"極度に~

本題に関し、要は仏教を学んでおりながら、現代の一個人の愛憎を無暗に抱えてはならない旨を述べる。
悪しき者との決別も功徳となり、釈尊や日蓮大聖人のように尊い方を尊信申し上げる精神性も功徳となろうから、一個人への愛憎もまた仏教者的であって非仏教者的でもあるが、現代の様相はそのうちの後者(非仏教者)に包括されると言うほかはない。
愛憎の感情も而二不二、内外(仏教と非仏教)の信義も而二不二のようであり、愚生の思惟を以て判ずるところでない。
そう結論してしまえば、結局は「戯論」の範疇ではないか。
須らく止むべし、として釈尊の戒められた煩悩の所業である。

佛垂般涅槃略説教誡經に云く「汝等比丘。若種種戲論其心則亂。雖復出家猶未得脱。是故比丘。當急捨離亂心戲論。若汝欲得寂滅樂者。唯當善滅戲論之患。是名不戲論」
ただし、思考停止を意味する教えではないから、己の限界まで思惟し尽くす、これが仏教者である。

また、池田さんの功績などに関し、本文にある通り、讃えも貶しもしない。
世界平和への貢献だとか、誰と対話したとか、こういう勲章を得たとか、それらは、そもそも閑居求道者たる私が価値を見出すところでもないし、世間的な貢献(特に日本の国益に資するもの)の実質性も問わない。
しかし、池田さんを見ると、宗教の影響力は誰でも感嘆しよう。
彼こそが世界で最も尊敬を集める日本人と言っても過言ではないが、同時に彼を知る非学会員(ことに脱会者)の人間からは、ほとんど嫌われる。
一応は外野の「識者」なる者を動かして持て囃す繕いもあるが、これまた論外(詳述しない)である。

あらゆる部分を摘まんでみても、真摯なる仏教者には無関係にして無益である。
ことに正宗系教団を脱会した大乗非仏説論者(法華経批判者・小乗仏教信者)は、これを取り合わずに己の解脱のための精神修養に時間を費やすべきであろう。
汝らの信奉するところのゴータマ・ブッダの所説、テーラワーダの経典(中村センセー所訳のパーリ語経典)を披き、己が蒙を啓け。
元々、池田さんへの興味も愛憎もなく、真摯に修行と研鑽に励んでいる人は、それで構わない。

本題につき、池田さんへの敵愾心までは、一部の教団が教団の歴史的経緯や戦略の上で必要な場合があっても、個人の修行者は持つ必要が無いと結論しておく。
修行の意思がなく、政治的に論断したい場合はそれでもよいが、仏教に疎い多くの一般人ならばまだしも、その中(ネットユーザーから著名な論者まで)に大乗非仏説論者が多々いることが可笑しく思う。
創価学会員も、池田さんへの尊敬を以て信行が進むならばそれでもよいが、その尊敬自体は仏法の本質において功徳とも以信代慧ともならないと付言する。
一方、学会員でなくして池田さんを評価する人々(識者サマ)については・・・。

質問した人からのコメント 2016/5/12 07:35:37
今後「メモ帳(ってな~んだ)」で、とある信者(特定教団ではなくインターネットなど民衆の潮流)の習性に関する論難を行う。
これまた、その信者すべてを一括している内容でもないから、正しい理解のある修行者は気にしなければよい内容である。
正しい理解ができていれば、当質問に言うよう、極端な思想を持つことは無い。
それでも、私は実乗の一善を第一義とする思想に変わりはない。
ある種の裏返しである。





mainen00さん 2016/6/12 05:24:10

アニメファンの宗教的な在り方は、資本主義社会の中から自然発生した教団無き宗教ですか?
商業主義の分派ですか?
アニメグッズなどの物体の収集に命を懸け、その所持数を競います。
「ファン"Fans, Fanatics"」という信者・狂信者の姿勢でしょうか?
彼らの自室がグッズで埋まって天国のように変わり、そこでアニメを見れば至福・極楽のひと時でしょうか?
現代文明にあって物質的で刹那的ですから、やはり現代的な思想の分派ですよね?

※私は2012年8月から、私的な基準で言えばアニメ類を見ていません。
>少し視界に入ることや、ちょっとばかり見た、というものを除き、まともに視聴をした=見ようと思ってOPからEDまでしっかり見たということが基準である。


mainen01さん 2016/6/18 12:01:36

アニメファンという名の信者"Fanatics = Fans"の宗教的意義は2つある。
一に物質的・金銭的な修行による「穢土即浄土」と、二に生活下での修行による「梵我一如(即身成仏)」を実現することである。
正統派を気取ったアニメファンは、自身が稼いだ金銭を以てのアニメ業界への貢献(布施・供養)や、世事に追われて時間の余裕が無い中でのアニメ視聴を美徳としている。
つまり、自室をグッズやポスター類で飾りあげて「穢土即浄土」を実現し、その自室でリアルタイムのTVアニメや購入したDVD類など正規な手段で視聴して「梵我一如(即身成仏)」を実現する。
前者は仏教でも類例が多いこと(仏像・曼荼羅・寺院など)を挙げ、後者は世俗的な自己を離れてアニメ世界に溶け込み一体化する(真の自己になす)という、昇天ならぬ梵我一如や即身成仏のような、アニメ教におけるエクスタシーを刹那的でも味わう目的がある。
これらの意義が論文の前半に詳述されている。

このアニメ教における修行法とその果報は一見、即物的だとか享楽主義だとか現実逃避だとかと思われそうだが、彼らが現世での息抜きや、精神的な延命の支えとなっている。
これまた、人々は「宗教は麻薬みたいだ(原語: Die Religion ist (中略) das Opium des Volks)」と言うが、私はアニメ教における修行法とその果報を尊重しており、強ちに否定はしない。
だが、私の宗教に関する知識の広さはここまで垣間見えた通り、アニメ教信者となることは決して有り得ないので、一応はアニメ教の存在を体系的に説明するのみである。

アニメ教の英語名を考えてみるに、"Anime"に接尾辞"-ism"の"Animism"では全然違う名前であり、言語"Animate"から"Animatism"としても、やはり既に使われている。
"Religious Anime Fans"とでも呼ぶべきか。
そう呼ばれる人々は、この精神性を理解し、受持している場合に限ろうか。





mainen00さん 2016/6/12 05:26:59
 

年を取ると「悟る」??
時に一部の高齢者は「年を取らないと分からないことがある」と言います。
こう言っても多義あると思いますし、確かに加齢と老衰によって経験することもありましょう。

ただ、特に気になる例が、年を取らないと物事の深みだとかが分からないらしい趣旨です。
それは結局、年を取ればその年齢層の人間が普遍的にそうなるのではなく、ただ老後(引退・定年退職)に世間の喧騒を離れ、世間の生業・職業に縛られない悠々自適な生活をしたり、知的な人は哲学や宗教を学んでみたりするだけのことで、年齢自体が要因とはなりませんね?
ましてや、本気で悟ったつもりならば、ただの「ボケ」と思ったほうがよいです。
そうでなくとも、ボケは進行しますし、老齢となって知能や直感能力や神秘的価値が増すということはありませんでしょう。
年を取って普遍的な傾向は、ボケの進行と、欲望の減衰くらいで、知能と精神の維持は難しいでしょう。
都合よく、知能と精神の維持を行いながら欲望が自然と減るならば、「悟り」には近づくのでしょうが・・・。

今時、戦前に生まれようが、戦後の唯物論的な文明・社会にあって老人に神秘性での尊敬は困難です。
「自分の家にいてもやることがなくヒマ」などと無聊を託ち、山林に山菜採りだとかタケノコ採りに入り、あわよくば一獲千金を狙う高齢者が多く、最近も東北の某所でクマに襲われ命を落とした高齢者が後を絶ちません。
こんな物質文明に毒され、矍鑠たらぬ蛮勇のアウトドアに興じる高齢者に尊敬など、仏教徒であればしません。
無闇に高齢者を敬う、「敬老」だけならば中国の儒教だとか近現代日本の観念的風習であり、外道の一種です。
何らかの諦観があり、本当に年齢的な神秘性が感じられる高齢者には頭を垂れる思いとなりましょうが、現実社会はこのような見苦しい高齢者で溢れかえっており、一昔前と比べても、知的で哲学的な高齢者など増えづらいでしょう。

一部の高齢者が得意げに言う「年を取らないと物事の深みが分からない」という趣旨の主張は、年齢を権威としたいだけの放言でしょうか?
未だ10代の若輩が問うべきでないかもしれませんが、そんな私こそが現代において真の老人となります。

補足
2点の補足をします。
1. 「尊敬」の対象は選り好みをします。
無差別の敬老は、先にある通り近現代の観念的風習に過ぎません。
しかし、全ての事物・人物には「感謝」をすべきであり、高齢者も同様です。
両親が愚昧で愚癡の輩であっても感謝せねばならない道理は、過去の質問にも書かれます。
感謝・謝恩は無差別・平等に行います(心の中だけで行っても無量の心を育てる功徳となる)。

2. この質問投稿直後に、さくっと知恵袋で検索していると、似たようなタイトルで内容が軽薄な質問投稿が1週間以内に既に投稿されており、しかもそれ以外には似た趣旨の質問投稿が1件も無い事実に遭遇しました。
普段の思惟を読み取った黒幕が先に仕組んだのでしょうか?

mainen01さん 2016/6/18 12:09:34

※他に思い出した表現が「年を取ると人間としての魅力が増す」といったものであるが、これは当事者以外もそう言う場合がある。そう思ったら、それはあくまでもその徳がある人物のみに言え、普遍的な傾向とは帰納できない。本気であらゆる人物に当てはめたい場合は観念的認識が強すぎる者となるが、もはや私はそれ以上に論難し得ない。あながちに「幻想は捨てちまえ」とも言えない。

仏様の教え、(仏教以外も含む)諸々の先達の指南、あらゆる事物・・・。
これらの影響を差し置いて自分の加齢が悟りの根本とすれば、我慢も甚だしいと言わざるを得ない。
加えて、加齢・老衰が悟りの補助となることもない(仏教の悟りでない通俗的な"覚り・気付き"も包括)。

徒らに年を取ってゆく長寿が量産されている時代だが、やはり安価で高品質な製品が大量生産される工業の進歩に比例しているから、このあたりは社会科学的にその法則が見られる。
反面、同じ長寿でも認知症ほか身体的疾患、経済的な問題、周囲の協力や認識不足など、困窮している者の割合も増えていよう。
農業・漁業・伝統産業などを、やる気・やり甲斐はともかく、続けなければならない高齢者も多い。
いわんや数十年後の将来の日本国をや、であり、それはもはや私が論ずるまでもない。
そんな中、人生の喜び・長生きの楽しみは、ごく一部の健康的で社会的な拘束も少ない有閑階級の高齢者ばかりが享受できる(あるいは一部の現役の農業・漁業・伝統産業従事者など)。
10代とて、閑居求道者を僭称する私(いわゆる中卒・無職・引きこもり)も同じような生活を送る人間でしかないか?

単に年を取るという形式的な変化ではなく、その変化の中でどう生きるか、そこに重きをおいてこそ真の日本人であり、仏教徒である。
若いころ世事にあくせくしていた者が高齢となって悠々自適に生きるようになった、これも変化の中でライフスタイルが変わった一例であるが、ここを重視すれば、やはり加齢などではなく、個人の経験の違いが影響していると見られる。
今の年齢は、時間経過の印でしかなく、加齢を根本として悟ったとか分かったとかという境地は、同じ世代や年代の人間の多くに適用できないし、有閑階級の高齢者少数から一般化もできない。
やはり、近現代の文明に毒された世代が、骨の髄まで「毒気深入」となったのであろう。
空虚に数字を弄して何となろうか?
仏教の悟りも、普通の覚り・気付きも、年齢で差別されるべきではない。

その点、10代の私は一星霜の巡りに、喜びも悲しみも覚えている。
私は人生の最初の13年でさっさと出離したが、その後も思想などで変遷や遍歴の多かった期間が続き、同じ生活のようでも精神の境地は流転輪廻が著しかった。
否、真の冒険や探求と呼ぶべきである。
仔細は過去の投稿文章に任す。

幸いなことに、ごく早い段階で仏教に値えた。
それも、誰よりも早く唯物論的思想や異常な社会思想を深めたり、苦悩を続けた故であったか。
そのために物質的幸福を求めるガクセー・シャカイジン様と比べて15歳前後でこれらを排除し、仏教を求める土壌が出来上がったろう。
結局、不遜ながら、凡夫に機根の差別があるように常々思う。
私の知能や寿命がいつまで維持するか、日頃不安ではあるが、真面目に修行をしていれば何らかの加護もあって自然と持続することのみ思えばよい。
そして、あらゆる事物への感謝、就中、仏教の恩恵を忘れないように生きてゆかねばならない。


質問した人からのコメント 2016/6/18 12:14:41
加齢の権威化といえば、「子供はベタベタな甘い味や濃い味が好き・大人ほど味覚が繊細」とか「子供は原色系など派手な色を好む・大人ほど色彩感覚が繊細」といったものもあり、科学的な根拠を交えていたりもする。
それらについでまで論難すれば、私の程度が知れてしまうから、慎む。
一つ言えることは、事実を事実として淡々と、そう言うのではなく、底意があって下心をちらつかせている点が、実にやましく思っている。





mainen00さん 2016/6/12 05:30:53

この世で一番大切なものは心でも金でもないし、論ずべき問題ですらない、これが仏教徒の考えですよね?
世間で「一番大切なもの」は「金」と言い、他方では「心」と言います。
どちらも極論であり、不足があります。

「金」の場合は、資本主義の現代社会・現代文明の場合、普遍的であり、まさに現代社会で最も強力な存在・事物であり、一理ありますが、それはあくまでも資本主義に生きるシャカイジン様の場合に限ります。
経済を重視し、唯物論に向いている点で共産主義なども同様です。

続いて「心」が一番大切であると主張する意見は、単なる唯心論であり、空虚に他なりません。
資本主義に生きる人間がこう主張する場合、商売人の綺麗事というところでしょうか?
金の動きよりも心の通った商売(心理戦?)、素敵な考え方ですね、そうですね。実際は腹黒い。

やはり、どちらも極論であり、本来の日本人や東洋の哲学的な思想には適っていません。
「全ては共にある」という考えがあれば、金だ心だとは言い争う展開はございません。
よって、何か一つの概念を過剰に擁護して論じても ←文章途切れ

私個人の思想から強いて結論を出せば、「一番大切なもの」は「命」です。
精神と肉体の結合・・・物(金など)だけでも心だけでも不足がありますから、その結合である「命」が大事です。
自分の命の大切さを認めれば、自他・万物万象(金も心も含む)を無差別に大事なものと認め得るため、強いて結論を出せば「命」と言えます。
いわゆる一元論に通用します。
あくまでも今の私個人の思想なので、これは少し仏教と異なりますが、決して自己の生命への執着そのものではありません、尊重です。

私は私の世界に生きようと思うので、私の中で「命」の大切さを認定します。
先述のとおり、分け隔ての無い全ての事物を認める自然に生きます。
「自然に生きる」とは、形式的に"Nature"で生活する原始人を言う狭義ではございません。
一方、狭い資本主義の世界に生きる人は「金」が大切でもよいし、狭い心的空間に生きる人は「心」が大切でもよいわけです。
結局、当人らの観念における世界観で、そうあるのみですから、何が一番大切なものといかなる個人が認定しようと、もはやそれ以上に口出しなどはできませんね?

そう思う私がこんな質問投稿をする理由として、一応、知る人の暗黙の了解ですが、特別にこのような話は、論旨と別の理由で行います。
その理由は、仏教徒が仏教徒であるならば自明でしょう。
 

mainen01さん 2016/6/18 12:59:23
 
質問への回答→結論は本文に出ているから、結論ありきの無礼な投稿であった。
この結論ですら煎じ詰めていないため、更なる追究を要す。
なお、日本・東洋に立脚した思想ではあるが、その領域に留まらず、万邦を貫く道理であると受け止める必要がある。



質問本文の修正について少々・・・。
「よって、何か一つの概念を擁護して過剰に論じても」の部分は書き切らずに置いたまま、質問まで運んでしまった。
「過剰に」の部分は「論じても」ではなく「擁護して」の方を修飾させるつもりであった。
正しくは「よって、何か一つの概念を過剰に擁護して論じても双方に誤謬が等しく生じます」となろうか。

続いて「決して自己の生命への執着そのものではありません、尊重です。」とする部分は、まだ続きがある。
"※"の記号に始まってこう書く。
「※自己の生命に執着するから全ての物事に執着を持ってしまい、欲望に溺れて輪廻転生を繰り返す原因となりますが、自己の生命を『執着』でなくして『尊重』すれば全ての物事も尊重できる・・・なぜでしょうか?」
この一文についても、仏教徒の領域に留まらず、生命の真理として受け止められたい。

「輪廻転生」は現世の一生が万生(過去世・未来世の転生全て)の縮図であるとした上で、その一生の中にも地獄にいるような心境や天界に昇るような心境がある、という見方によれば、人間は誰もが輪廻転生を体感していると言える。
現世の一生の中の命に執着すれば、それを根幹として枝葉も根も広がるように執着と欲望を生む、それが現世の一生中でも、過去・未来の万生においても輪廻転生の原因となる。

ただし、現世の一生の命は尊重する。
その理屈は本文の通りである。
反対に、現世の一生の命を無下にするようだと、それは死後の輪廻転生や堕在悪道の悪因となる。
悲哀や苦悩のために自殺をすることは典型例である。
世間的な欲望のために命を落とす者も多い。
人助けのつもりで死んでも、悪道に堕ちずとも六道輪廻からの解脱は叶わない。
一番良いことは菩提心を保ち、菩提心を失わないまま仏道を行じて命終することである。
自ら死を望むのではなく、努力の中で結果的に寿命が尽きるか、命を賭する覚悟で行動する中にあらゆる欲望が抜けているまま絶命することであろう。

・・・・・・無論、理想的な死に方を夢想しているつもりはない。
一応の見解としてこれを綴る。
そのような死に方が「結果的に」訪れる臨終は良いであろう、と認識を持つのみとし、この点にも執着してはならない。
 
当記事補: お金は、そもそも高度化してゆく文明で、その物的な循環の補助として様々な目的を果たす道具として最初期は貝殻などを用いて作られたという説がある。お金は大事であること、現代文明においては誰も否定できない。しかし、その単なる道具が絶対に文明を動かす原理ともならない。お金に動かされる人間がいるだけのことである。つまり、真理の如く崇める「拝金主義」は邪義となる。お金が大事であるとする考えを清らかに持ってよい。同じようにそのお金を大事だと思う人間の心・愛・精神性をも大事にする発想が必要である。薬は良いものでも、使いすぎれば毒であろう。風邪をひいていない人の風邪薬服用、便秘でない人の下剤服用は、どう価値があるか。副作用を恐れる。二辺を離れる仏教の法薬は、誤解がない時に決して毒薬とならない唯一の妙薬と考えてよい。




「民主主義・人権尊重」という世界最強宗教の信者として日本・欧米などの諸国(先進国・EU加盟国)は陰徳が絶大でしょうか?
アフリカの人々・アフリカの子供たち・紛争地域の難民などに対し、物資であるとか投資であるとか、国内への受け入れを積極的に行っています。
自国の、主に後期高齢者や重度障害者まで生活困窮者にも福祉として多くの予算に組み込みます。
小中学生の頃は、そんなことに自国の税金を捻出して「無駄」とは思いましたが、これは小中学生としては知識に富み、達観している方でしょう。
しかし、もっと大事な宗教や哲学や思想の知識を身に着けて見直すと、実に国連やEUという教団のもと、絶対的・相対的に潤沢さのバランスが取れた国々が陰徳を積むために行っている魂胆が分かります。
現代文明の地球上は、こんなにも慈愛の心で満たされています。
この心なくして、現代文明は成り立たず、先進国の顔も立ちません。
民主主義・人権尊重などの人道主義において「霊長類のヒト」である生命には普く人生の喜びを得られるよう、物質的に救済します。
なので、彼らが恩返し・シャカイコーケンだとかをしようがしまいが、関係ございません。

民主主義・人権尊重とは現代の文明において宗教そのものであり、宗旨・教義そのものではありませんか?
そんな、得体の知れない観念的な宗教における陰徳を積むべく、自国の贅なる富をポンポンと貧困の国に恵みます。
余った金を捧げ、むしろ借金を増やしてもかまわない気持ちで積極的に陰徳を積みます。
「富の再分配」は民主主義・人権尊重の精神によって世界中に支持されています。

何とも心温まる民主主義・人権尊重の精神です。
現代文明にあって、これほどまでに清貧と慈愛を誇る思想がありましょうか?

無駄な行動は何一つありません。
あれが無駄、これが無駄、煎じ詰めれば万事万象万物の一切は無駄、これが虚無主義の一元論でしょうし、現代の唯物論的思想では、安易にその思考に陥ります。
よって、一見愚昧に見える人道主義の行動も、観念論的ながら、大いに意味を持っています。
そして何人もこれを止められません。
10代のうちに幼稚な思想を脱却できて嬉しく思っています。
理論的に、人道支援の正当化を私は果たしました。

このように、割と意義の深い人道支援を行う日本や欧米などの諸国は陰徳が絶大ですよね?
また、民主主義・人権尊重などはキリスト教の博愛思想に発端してキリスト教を蹴散らした「出藍の誉れ」を持つ、世界最強にして現代文明の総意を得ている宗教ですよね?
無駄を排除したがる急進的革命思想は直しましょう、大人にもなって「無駄だ!」と叫ぶ日本人が多くて悲しく思います。


mainen01さん 2016/6/21 15:05:33
 
「世界人道教」における日本国の陰徳は絶大である。
戦後、自国の経済的な復興はもちろん、恒常的に貧困国・発展途上国・新興国へ支援を行い続けた。
質問本文の「アフリカの人々・アフリカの子供たち」に限らず、朝鮮半島や中国や東南アジアへの投資は甚大である。
彼らが恩返しをするなど、見返り(陰徳陽報)などは全く眼中に置かず、人道主義という観念的宗教の陰徳を積み続けた。
そもそも、彼の朝鮮半島や中国大陸の民衆が、その恩を知ってさえいまいと、もはや問題とはならない。
諸外国も、大概はこういった陰徳を知らないが、それも何ら構わない。
自ら行い、自らその功徳を積み、自ら喜ぶだけでよかろう。
観念的宗教の陰徳は、実在の国家に資さないばかりか観念的宗教の中ですら陽報に達しない。

今現在も日本国は、架橋・道路・鉄道など、世界各国でインフラ整備に奔走している。
陰徳と別に、下心を持っている国々も日本のように狂奔している現状がある。
その話は措いておく。



ここで、中3の頃の見解を再確認しよう。
日本が貢献してきた国々から、実際に「恩返し」は有り得るか?
東南アジア諸国は比較的まともであるとしてアフリカは地理的にも地政学的にも発展が望めないから、実利的・即物的な観点での等価以上の恩返し(衰退した先進国の老後を補助してくれる)は考えづらい。
中国・南北朝鮮は3か国いずれも社会主義国家か社会主義的な思想統制が見られるため、現在の体制では日本への恩返しどころか、「恩を知る」という前提も生じづらい(よく言われるインターネット普及や時間経過もあって彼の国々の若者ほどナショナリズム・反日史観・思想が薄まりアニメ等の文化的影響もあって親日的な人間が多いとされるが現状では不足がある)。
「恩返し」の前提を除いた場合で些かの実利的・即物的な寄与はある。
こういうわけだから、中3の頃などは円借款だか通貨スワップだか、他に恒常的な物資・投資は、アフリカ・中朝などに不要であるように思っていたが、今そうは思わない。

先ほどのように日本は自ら行い、自らその功徳を積み、自ら喜ぶ。
これは同時に、現在の日本国(欺瞞的平和国家)が現在の日本国(欺瞞的平和国家)であるために、必要な拠出ともなる。
何事も、「無駄」ということはない。
数々の物資・投資、人員の派遣だとかインフラ整備などは、仮に忌まわしく思えても「必要悪」である。
いや、それでもいつか良心ある国々が気づいてくれることも微かに望んでいるのではないか。
しかし、下心を強くしてもよくない、見返り欲しさの善は偽善であり、陰徳ですらなくなる。
いや、それでも知らせたい気持ちは生まれる。

日本と中朝など特定アジア国家の間にある歴史認識の溝も、今はまだ無理強いして主張しない方がよい。
だから、今まではその穏当な原理において愛想を振りまき、陰徳を積む行為を続けたし、これからも国費などは仁義の印として国内外にばらまく。
いつかは相手が主張を聞き、認めてくれることを願いながら。
かといって相手の歴史認識に妥協せず、また自己の主張を忘却してもならない。
そうする中で今現在、ロシアが実効支配する北方領土はロシア固有領土としての既成事実を増やそうと、軍事拠点造成や民間人の生活向上の政策などをロシア政府が弄し、あまつさえ日本にも共同開発など参画を請うてまで、対外的に印象のよさそうな演出もしており、中国の南シナ海問題や日本領海・尖閣接続水域などへの侵入も深刻である。
難局に立たされている日本には、今までの漸進主義的姿勢が維持しづらくなっている。
後述する仏教の漸進主義は、対峙するうちの片方だけでなく、両者が行ってこそ解決を得る(自他不二)から、日本だけの仁徳が高くとも、事態はもつれる一方である(慰安婦合意はある意味で目先の解決としては両者の譲歩が見られて好例だがアメリカの背後関係が示唆される)。

2015年に外務省がYouTubeに投稿した英語の動画も見てもらいたい。
日本が珍しく陰徳を闡明しようとした啓発ビデオである。

調べてみれば、安倍首相は「日本の陰徳」についてこの頃に発言したようで、彼の任期が長い点もあろうが、やはり面白い発言が多くて感心が持てる。
彼の発言で好きなものは「中庸が最善」である。
彼のエジプトかイスラエルか別の中東諸国かへの資金援助は、民主主義・人権尊重に根差した人道支援であり、この発言も同様であったが、ISISの癪に障って元々捕縛されていた日本人2名を人質として金銭要求しに来た悲劇がある。
世界人道教の夢に耽ったところ、儚く破れ、冷や水を浴びせられたのであった。
2人の日本人男性の尊い命よりも、テロリストに金を渡してはならないという世界各国の共通認識の方が重要らしい。
民主主義・人権尊重などのグローバルスタンダードで、対テロでのダブルスタンダードが生じた。

戦争・紛争・衝突・核開発など軍事的問題や政治・経済・環境保全も同様で、いずれも実に難しい問題であろうが、簡単な理論上の解決法は、全人類の絶滅という極論か、全人類の完全思想統制(人間の機械化)という極論か、仏教的に善悪の存在を認めながら改善への努力を少しずつでもよいから進めようという最善のいずれかである。
いずれも実現しづらい。
本当に少しずつでもよいから、気付いてくれる人が増えると嬉しく思う。
「此經難持 若暫持者 我即歡喜 諸佛亦然」



日本に限らず、アメリカ・カナダという北米の先進国ほか、EU=欧州連合の加盟諸国も、フランスのパリのテロだとかドイツの婦女暴行の事件などが起きるまでは、世界人道教の夢で脳内がお花畑であった。
彼らも、長いこと、人道支援などによる陰徳を積み続けてきた(第二次大戦までの大悪の罪滅ぼしか)。
その夢は儚く破れ、今は多くの西洋諸国が排他性を強めるなど、民衆のイデオロギーが右傾化を続けている。
国家や体制が寛容で陰徳が高くとも、多くの在来民や移民などが荒れているようだと、結局は不十分なばかりか、泥沼化が進む。

国連は世俗的な慈愛の象徴であり、北朝鮮や中国のような国家でも、その国連大使だかは、世界人道教の教理を弁えている。
もとい北朝鮮や中国のような国家でも、高官など支配者たち(プロレタリアには失礼な表現だが実質そうだろう)は一応、世界人道教の教理を弁えているように見える。

大衆が機械か人形のように合理思想に毒されても、ごく一部の知的な者たちが人道主義の理論に心から通達することは、あたかも完全(99%?)機械化の大工場に少人数の管理者である人間が関与するようであり、これでも現代文明は理論上維持できよう。
その状態のままでよいとは思わないけれども 善悪は共にあって成り立つならば、必要悪もあながちに排除できない。
しかし私は、近く、全民衆が甘露の法雨に浴し得る時代の到来せんことを、仄かに願って日々を生きる。

私のメインの活動拠点であるブログにおいても2016年6月8日に同じ意義を述べた記事を投稿した。

本文所載画像・・・主の顏貌柔和にして、御心廣く、盲なる我らを哀れみ給ふ。(文語文聖書もどき)


質問した人からのコメント 2016/6/21 15:09:06
前日の夕、仏教徒であればいかなる立場で投票権を行使すべきか、私見を述べた。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/19.html

特定の政党や政治家に嫌悪感を強く持っても思い煩うばかりである。
そもそも、国政などの俗事には特段興味を持つ必要はない。
しかし、この現代文明に生きて有権者であれば投票権を行使したくなろうし、そういう場合の最も「中道」として自然かつ漸進を重んじた選択が何であるか、詳述してある。




mainen00さん 2016/6/26 08:17:52

この写真の母親の姿を見て尊敬できますか?
一番左で腕を広げ、緑の長袖シャツにエプロンを羽織っています。
子供がこの姿を見習うべき道理はありますか?
6月18日の暑い日の出来事です。
以下に日記の文章を載せておきます。

10時50分ころ、呼び鈴が鳴らされた。 (中略) インターホンを介して顔を窺った。かなり顔の似た、30歳の男女2名であった。 (中略) 彼ら2名はK邸に今後引っ越す夫婦であるが、顔の印象などは12月の訪問時以来の私の先入観に反していた。女性は髪を短くしていた。

玄関のドアを開けた母親は、彼らに工事関係者への不満を愚痴にし始めた。彼らは困り気味の笑顔で話を聞くしかない。空虚な相槌で母を懐柔する。母には、挨拶に来た相手の顔を立てる発想が全くない。問題を感じる度に工事業者にクレームの電話をいれる発想と同種であるばかりか、尚更たちが悪い。母親の鬱憤が凄まじいこと、近づかない方が無難であることを、接触したあらゆる人間に鮮烈に伝える。母は彼ら2人に、暑い中で20分以上も不満を聞かせた。この後、彼らK夫婦はI家やT家を回ったが、I家の高齢女性とは3分ほど、T家の女性とは2分ほどで会話が終わった。普通はそんなものである。応答に時間をかけて相手を待たせた挙句、野暮な話題の話で炎天下、相手を困らせた母だが、異常性は自覚できないし、自覚できないから常に狂乱して已まない。己を糊塗するほどに恥の上塗りとなろうことすら気付きもせず、不平不満を連ねられる才能はある意味で仰ぎ見てしまう。彼らを母自身の憤怒の捌け口としても、母自身の悩みは解決できない。工事の騒音や臭気など、この程度で問題視する必要もないから、悩みを自ら生み、人に爆発させて更なる問題をみだりに増やす、まさしく修羅・畜生の愚人である。そのような輩に忠言や諫言を入れたところで反発され、ますます三毒を増長させる。 


※12月の訪問時とは12月11日の日記メモに記されますが、質問と直接の関係はないので、興味のある方はご自由にご覧になってください。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/01/plus-december-2015.html#11

※修羅・畜生についての説明のブログ記事もありますが、質問と直接の関係はないので、興味のある方はご自由にご覧になってください。

※母と弟の喧嘩は今も絶えず、つい昨日6月26日も弟がリビング・廊下のドアに部分的な破損を生じさせましたが、この話は別の機会に譲ります。

補足
6月27日は劇的・日記メモから略記します。

(前略・17時10分に弟が帰宅・本日の弟の誕生日に関連した会話を母と弟がする) それから、穏やかに話そうとした母だが、俄かに弟が怒り出し、ついに母へ一発殴打を加えた (中略・母が取り乱す、弟が暴言を吐いたり2階に上がって物音を立て続ける)

「警察呼ぶよ!」とは本来、空虚なはずの脅しも、今回は狂乱のため、本当に警察へ電話 (中略) 通話中「落ち着いていますよ」など (中略・17時32分パトカー到着) 母と警官2名の話を聞くと、母は過去にも通報だけした (中略) 以前2時間の事情聴取を受けたなど、警官の対応に関する不満を続けた。やはり母らしい。(中略・17時45分に弟が風呂を出て17時48分に別の警官2名到着)

風呂を出た弟と警官が話し合う展開もあった。母が警察を呼び、ここまで取り込む事態は今までに一度も無い。この事態で一連の問題が改善するとは到底思えない。かえって火に油を注ぐような悪因とすら成り得る。警官との話し合いで弟が衷心より反省するはずもないし、母も安易な手段で改善すると思うならば実に儚い話 (中略) 今後も改善しないとは断言できないが、少なくともこれだけで改善する問題とも思えず(多々後略)



mainen01さん 2016/7/2 06:55:59
 
修羅・畜生の境界を流転輪廻する母親に尊敬など誰もできない。
※今回も予定調和の自己回答を行うから、補足文章よりも先に、自己回答の文言を記していた。
※補足文章の500文字制限の問題を突破するために40分以上をかけて校正した。

この写真のように、近所に引っ越すための挨拶に来た若い夫婦に対し、6月の快晴の日の炎天下で工事業者への不満を20分以上も長々と垂れる母親の姿には、どんな人間も尊敬の心は持たない。
近所の新築工事は2015年12月と2016年5月、別々に始まった。
それらの新築工事や、以前の解体工事などの工事業者に対して電話でも口頭でも不満をぶつけることの多い母親だが、引っ越しに来る人々にまで飛び火させて母親は何も恥じない。
この翌日、実際に竣工のセレモニーがあり、引っ越しのトラックなども出入りして引っ越し作業があったが、ご近所同士もっと気持ちのよい引っ越し祝いとはならなかったか?
不穏な話題で熱心になり、文字通り汗水を流し、母親の心はスーッとしたことと思う。

この母親を見て「かっこいい」とか「いいぞ、もっとやれ!」と思う子供がどこにいようか?
親たる自分を見ている子供がどう思うか、自分の醜態を客観視できないか?
いや、子供が実際に見ていようが見ていまいが関係はない。
これが、子供に見せられる親の姿であろうか?
こんな当たり散らす人間を見習う子供が、世間には少なからずいる。
その子供は親から肉体的・精神的暴力を受けている例も多かろう。
私の幼少期に関しては2015年3月21日の本家ブログ記事に説明を任す。

上に立つ人間の慈悲や徳が何もない母親である。
上に立つ人間に必要な器量とは、端的に言って慈悲や徳であるが、これだけを言うと普通に人には誤解されるか、難解に思われる。
例えば、戦後の日本やアメリカなど先進国は、過度な国家主義・闘争性を恥じた。
今の国連やEUなどの機関や世界中の国家や為政者の間で「民主主義・人権尊重」などが保たれる理由は、第二次大戦など過去の歴史への反省にある。
あの時代は必然的に世界戦争が起きる状態であったから仕方も無かろうが、今の時代はこうして枢軸国も連合国も統治国も属国も相互に反省し、仮初の平和が成り立っている(仮初・欺瞞の平和が一部の国家にのみ続く・反省に漏れた国は争い、覇権を維持したい国は武力行使も徹底する)。
(中略・イギリスのEU離脱例示と、共産党支持してFXを仕事と豪語する母の反応と、この話題を6月24日の夕に母がした際、弟に暴力されたという。これは6月24日の母の連絡帳の記述に見られ6月26日の日記メモに記録する)。

意見の中身がムチャクチャであっても、求める声があれば耳を傾ける。
これが上に立つ人間の「徳」ではないか?
ましてや、親ならば深い「慈悲」も必要であろう。
幼少期より、それらを両親から感じることがあまりなく、今振り返ってみても経済的・物質的な恩恵くらいしか浮かばない。
慈悲とは「苦を除いて楽を与える」概念であり、「心に響く」という類の経験など、充足して親の徳を感じられように。
母親は、先の若い夫婦に対して炎天下で自分の不満を好き勝手に爆発させるところ、協調性も何もない。
彼らの顔を立てる発想もないから無慈悲である。
反省の徳もなく、自己中心的なままでいる母親は、共産主義系国家やイスラム諸国の首脳らと大差はない。

所詮は、親戚付き合いを嫌い、自ら母親を憎む母親である。
あの祖母とよく似た母親はあの祖母を憎み、祖母の長女である母親の長男である私もまた、憎まずとも尊敬などできないが、まあ「本末究竟」というほかない。
あの祖母から、代を下るほどますます論理性が高まるが、それでも私は、母親らと似た者同士でしかないようで恥ずかしい。

また、長く付き合いのある友人も皆無である以上、「社会」に生きながら反社会的な性格が強い、矛盾の社会人である。
母親は電話相手に「あんたシャカイジン何年やってるぅ?」と嘲笑しながら苦情を付けることもある(12月28日メモ参照)。
自分がシャカイジンの虚名を誇っている割に、最も社会性が欠如している。
母親には矛盾が多すぎるが、類例は枚挙にいとまがないため省く。
それらの矛盾や、通俗的観点での「悪」に母親は自覚を持たない。
人から指摘を受けては、微塵も聞き入れず、反発してばかりでいる。
ここにも「徳」の無さが伝わろう。

若い頃から社会生活を続けながらも、健全な人間関係を築けずいたのであろうが、それが原因となってこんな性格となったのではなく、元々このようであるからそう生き続けた。
偏に、あの母が「金の無心ばかり」と嫌う祖母から発していようが、母はさらに「祖母の父」が諸悪の元凶だと言っている。
私の生前の話など体感できないし、水掛け論ならば止める。
こういった半生の折、「いい年して結婚しない」と世間体を恐れた後の父親と、収入や学歴や外見などで不満がないため、大した交際もせずに結婚した。
この父親も愚昧であるが、どちらかといえば父親が哀れである。
「世間体」という観念的な問題のために悪妻を娶って苦悩の日々を送らねばならなくなった。
ただ結婚すればよいと言えないが、互いに結婚相手を誤り、「クズの子供(母が"3人とも知的障害"と決めつける)」を3人も生んだ。
現代文明で「何をするか」という形式的で皮相的な一面しか見られない即物的思考のために、結婚後は喧嘩ばかりが続いた。
「何をするか・実際に行うべきか」と企む前に、「自分が今どうあり、後はどうあるべきか」を分析して精査せねばならなかろうに。
さすれば自ずと、己の「すべきこと」と「すべからざること」は分別がつく。

私の弟2人も両親もみな「畜生・修羅」の境界に暴れるが、この回答文には今まで一端のみを書き、全容はとても書ききれない。
勉強熱心でもない「職業薬剤師」の母は様々な事情で職場を転々とし、「自称シャカイジン」の今はにわかにネット通販・にわかに共産党機関紙購読・にわかに心理カウンセラーなどを受講して継続せず、一貫している生活習慣はテレビを見てゲラゲラと笑って過ごすのみで、弟との関係は日に日に悪化し、事あるごとに喜怒哀楽を繰り返すわけだから、まさに刹那的で「修羅・畜生」である。
己の非を自覚する徳を感じられた言動が一度としてない、ただ弟の威容に怯えてその場しのぎで「悪かったよ」と怖じることはあっても、すぐに威勢を取り戻して怒り出すなど、「修羅・畜生」など四悪道の衆生以外の何物でもない。

世俗の趣味も勉強も何もできない母親と違って父親は、長年続ける(2011年当時)トランペット演奏や図書館通いを行うものの、やはり「職業」としてのITを触る程度である(私は父から職業知識を授かった記憶もなく2000年代序盤にPCがあったくらいで2007年のPC購入は母の発案だし部屋に飾られたオラクルマスターだかの認定証も空しい)。
趣味のトランペットに共通する仲間もいなければ、音楽のライブに行く余裕もなく、古いカセットテープなどでジャズを聴くくらいしかない(孤高の演奏家でも魅力はあろうが父は単に孤陋で俗事に追われるから演奏技術の上達もない)。
図書館通いをして多くの書籍を読んでも、父の哲学性や人間性に資する結果などはない。
だから、狂人たる母=悪妻を相手に腹を立て、休日は毎日喧嘩をしていた。
狂人たる母に対し、寛容なる慈父の徳を見せれば、もっと好感を持てた(それだけでは母の異常性の解決には繋がらないが)。
現代文明の悪いところを取った無機質な二人は、同族嫌悪の状態であった。

先天的に欠陥がある上の弟や、実際の知的障害を抱えている下の弟についての概説は省く。



親子喧嘩・夫婦喧嘩などの家庭不和や、戦争など国家間の敵対などは「仏教」と「和」の思想で円満に収まるし、解決のみならず予防もできる。
仮にまた疑心暗鬼が生じたり、一触即発の雰囲気に陥っても、互いに自己を律して相手を制する徳で無事となる。
2016年6月8日の本家ブログ記事の通りである。
肝心は「相互の善悪を認め、自覚・反省・努力に生きる」。

しかし、それは理論上の話であり、実際には共産主義系国家やイスラム諸国・イスラム教徒などにこの理論は通用しづらい。
なかなか度し難い例が多く、唯物教徒たる現代日本人も同類である。
戦争の反省を日本や欧米の知識階級が行い、それらに支配された国々の一部の知識階級も倣うことで、仮初の平和が生まれた第二次大戦後の現代であっても、下層の民衆は理解さえできずにいる。
「上下一体」の「和」があってこそ成立するのである。

最近、ダライ・ラマ14世とレディ・ガガが会談して「思いやり"Kindness, Compassion"が争いを解決する(幸福や平和を生む)」と、一理ある見解は述べられたが、そんなことだけを言っても簡単に解決などしない。
今年訪日した元ウルグアイ大統領だかも、「人間の幸福」について仏教的に一理ある発言はしても、やはり浅薄な領域でしかない。
実に浅はかな綺麗ごとしか、世間の著名人は言わずにいるから、実質的な議論などされもしない。
多くの一般人は、むしろそれら「シンプル顛倒」の戯言を称賛している。
「片言隻句・片言隻語」のみで頓悟できる人間などそういないというのに、そればかり重んじる現代日本人は知的怠慢である。
世界の騒乱や険悪な情勢は常態化・泥沼化が著しく、上下みな愚昧なままでは、お先真っ暗である。
無論、私の家族は度し難い。



本文関連リンク
投稿予定である「2016年6月分の日記メモまとめ記事」のパーマリンク(各日付の文言は日付一覧で該当する日付のリンクをクリック)→http://lesbophilia.blogspot.com/2016/07/plus-jun-2016.html

修羅・畜生の境界を流転輪廻する母親に尊敬など誰もできない。


質問した人からのコメント 2016/7/2 06:58:17
回答画像が載る動画です→http://www.youtube.com/watch?v=od9M2A5g5Xg
6月27日に母が警察を呼び、家に来た警察と母の会話を録音し、動画に流しています。





仏教徒は仏教の思想と教義に基づいた投票を行っていますか?
6月20日に私の拙ブログで仏教の思想と教義、引用などを含めた拙論文を起草して即日投稿しましたが、私以上に論理的に完成度が高い仏教的な政治思想はありますか?

6月20日の拙論文の要点
・今月(2016年6月)22日に公示される第24回参議院選挙では、私(19)のようないわゆる未成年者も、18歳以上であれば投票の権利を有しているから、投票が行えるらしいが、私は「閑居求道者」を僭称し、小手先の制度改革の如きで政治家の本質が変わりもしない観点からそもそも投票所へ足を運ばないであろう。
・「あれに投票して後悔した・投票に行かなくて後悔した」というように、己の判断に後悔が生じないならば、投票権の行使や投票する候補者・政党などは自由でよい。
・仏教徒の政治思想は、すべからく「中道・漸進主義」であるべきであり、いわゆる「無党派」の立場も恥じる必要はない。
・投票権を行使したければ、基本的に与党に投票すればよい。
・どんな人間も政党も、完璧なものはないし、汚点はあるし、仮に今は汚点がない場合もいつかは汚点を作るから、潔癖思想(衛生観念)やセクト主義(派閥主義)は捨てた方がよい。
・自党の長所や他党の短所を論ずる行為はあくまでも政治家の仕事の一環であるから、公職でない多くの民衆・一般人らは、殊更に支持・不支持の論拠を強調せずともよい。
・インターネットのように一般国民が政治を論じる「直接民主制」の在り方を否定はしないが、仏教徒が政治の問題を論う行為は空虚に等しく思わねばならない(私の拙論文はあくまでも仏教思想の説示のうちに含まれる)。
・仏教徒は、誰彼を嫌わず、温かい目で万事、静観していればよく、よほどの事態でもない限りは心を動かさずにいるべきであろう(カピラヴァストゥの釈迦族を滅ぼそうと進軍するコーサラ国の毘瑠璃王に対して釈尊は道中の枯れ木に座り込んで引き返す暗示をしたが、毘瑠璃王の怒りは双方の業に原因があると知った釈尊は彼らの自然性に任せたという故事を例示する)。
・ましてや、仏教を学んだ者が安倍政権への不満に業を煮やすとは愚昧である。
・セクト主義を離れ、他人の過去の善悪に対する己の未練を断ち、中道に入るための良い言葉は「風、疎竹に来たるも、風過ぎて竹、声を留めず (菜根譚)」や、「愼みて過去を念ずること莫れ、亦た未來を願うこと勿れ。過去の事・已に滅したり、未來も復た未だ至らず (中阿含経・根本分別品・温泉林天經第四・跋地羅帝偈)」と。
・こう理解しながらも、思考放棄に陥らず、事大主義的な投票行為や、惰性の投票行為とはならないほどに思考を維持できる者は、この政治観を踏まえて投票すべきである。
・どうしても、その政党の過去の汚点が拭えないという潔癖思想の強い者は、好きに敵対政党を支持すればよい(詮ずる所は投票権を行使する者の自由である、後悔なくんば正し)。
・現体制でも改善はある、そう「無量の心」から期待しておき、なおかつ邪悪に見える宗教政党や共産系政党も過度に嫌ってはならない、これが議会制民主主義のためにもなる。
・「あなた」がまともに思考を維持できれば、このような賢人になるべきだが、その賢人は日本に多くとも2割程度でよい、残りは愚民でよい、その賢愚が共存してこそ「和」が醸成される。
・無論、与党であっても「あなたにとってよほど酷くて看過できない」状況の場合は、先述の通り「思考放棄に陥らず」吟味する必要がある(自公推薦で都知事となった舛添さんなどを例示)。
・投票先が与党でも野党でも、あなたが仏教の思想を踏襲しつつ、世間に関する知識を些かでも有していれば、自分の選んだ候補者が醜態を晒すこともなく、不本意とはならない。


この拙論文投稿以後に開票結果が出たEU離脱投票についても、やはり本質は投票の参加・不参加や、投票した結果の後悔である。
また、政治の責任は政治家のみではない。
上下の万民は一体であり、国土と国民の「依正不二」を知るべきである。
俄かにアベ政治反対を強く叫ぶたちは、本質的に同じ失敗を何度も繰り返す輩である。
ここに悪道の流転輪廻を見た。
仏教的な思惟を深め、どう関連するか熟考されたく思う。



というわけで、投票行為は自由ですし、投票先も自由です。
投票権を行使したい人が、中道(単なる政治的なものに限らない)の立場を理解できていれば、どこに投票しても後悔はありません。
善悪の結果も恐れません。

これが私の理解の大要ですが、仏教の教義に適いますか?
また、もっと仏教に通じた政治思想は何でしょうか(一応現代文明に生きて日本国籍もあるならば政治などの世情も少しは考えるべきです)?
自分の思惟を中心に、仏説などを援用できると最善です。

補足
インターネットを見ると、断片的には仏教の中道に根差した思想が世俗にも向けられて語られています。
しかし、具体的に「政治思想の中道」に関して仏教の観点から説明した投稿などは見られません。
なぜ、誰も真如の政治観(世法と仏法の融即イデオロギー)を示さないのでしょうね?
私は、仏教の超俗的な立場による政治観はどうあるべきか、悩む時期がありました。
その末に「どの政党が(絶対的に)正しいか」という価値判断自体を捨てる必要に気付きました。
現代に生きる一部の高徳たちは、きっと内心に私と同様の見解を秘めているでしょう。

教団お抱えの宗教政党は、この中道の義に暗いでしょう。
イギリスEU離脱(Brexit)に関しては功罪があるし、内政干渉なので言明はしませんが、やはり己が後悔しない行動が大事です。
EU離脱派であっても、しっかりとした理念(彼らの立場における功利性の確立)があれば、何ら後悔しません。



mainen01さん 2016/7/9 06:16:35
 
私が説示した中道の政治思想は、まず自分の判断に後悔しない境地に立っています。
自由なので、政党の過去の善悪にも執着しません(念を押しますが"思考放棄"とは不等号です)。
世俗的合理性にも依らないので、功利的な未来への欲望を持ちません(先の中阿含経の偈)。
それでいてより良い選択をし、自身も後悔なく、仮に後悔があれば反省し、改善の努力ができます。
何らかの期待を持って投票し、期待と外れた結果がある場合には悔悟の念を起こし、大いに反省しましょう。

政治への不満・その時の政権や体制への怒りなどを、民衆は何度も繰り返します。
怒りという瞋恚など三毒の苦しみを離れ、生老病死の苦しみをも解決する尊い仏法に値(あ)えた人々は、無上の処世術をどこまで実践できるか考えてみましょう。
未だ仏法に値えずして三宝の名を聞かない者は、愚かしくも修羅(瞋恚)や畜生(愚癡)や餓鬼(貪欲)などの悪道を流転輪廻しています。
私の仏法に即したイデオロギーは、徳高きの故に、本文の通り、多くの現代人からかえって反発の邪見や思考放棄の慢心を招く「不須説」の政治観です。
私としては迷える愚人たちを済度せんと、広く流布してもらいたいくらいですが、軽口には説けません。
私のように人から説示されず、どうにか目覚めた一部の賢人たちが「自然の流れ」による緩やかな改善を祈るくらいしか、現状は為す術もありませんでしょう。

7月6日、たまたま現代の高徳の一人による文章を見ており、中道こそ無上の処世術であるという類義の文言を見ました。
引用→「二項対立・二元対立の両辺のいずれにも偏らずに、その相対を超克しなければならないというのが、この世で過ごす上では大切なことになるわけであります」
無論、単なる今生での処世術に留まらず、後生をも度する利益を忘れてはなりません。

政治においても、「無党派」を恥じず恐れずにいられる理念の高い賢人が「日本の2割未満」まで程よく増えればよいものです。
「無党派」として投票権の用捨は自由であり、投票先も「漸進」を願って与党を選ぶか、具体的な変革を望んで一時的に野党を選ぶかもまた自由であり、賢人らがどこに投票しようとしまいと、「票の多寡」は問題とならないように考えられます。
得票数など、数字のお遊びは考えも及びません。



中道の真髄は、現世で心の安寧をもたらし、三毒の苦しみの多い三界の輪廻転生から解脱を望む者たちの後生の助けとなる功徳です。
その延長として、あらゆる二元対立(政治でいえば右翼・左翼などイデオロギー)の論争を離れられます。
二元対立の思考こそが三毒の心を生み、悪道の流転輪廻を増長させるわけですから、仏教徒は須らく中道に立つべきでしょう。
無論、中道であるものと中道でないものの二元対立も有り得るため、速やかに厭離や慈悲の徳を得ねばなりません。
「己の三毒」を厭離し、「他(他人)の三毒」を慈悲で抱擁しましょう。
本当の意味での「平等」は、慈悲深き中道の理念に立脚します。

その故に、この中道を心している人は、一喜一憂も後悔もしませんでしょうし、今はその境地にいなくても、日々の反省と努力でその境地に近づきます。
中道の義を宣揚した龍樹菩薩は「中論」で「若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃」と説いています。
「俗諦」という世俗の言語や真理などで理解を通さないと「第一義」という仏教の真理は得られず、「第一義」を得ていないならば涅槃も得られないと意味します。
「世俗の真理も仏教の真理も切り離せない→これらを介して最後は真の安らぎを得られる」やはり中道によって心の安定があると説いています。
個人の心に限らず、私の説明の通り、俗世間に対しても「多分色々とよくなるよ」くらいは期待できます。


質問した人からのコメント 2016/7/9 06:24:11
2016年7月8日18時10分、イデオロギーにおける「真正の中道」を、当該記事を原稿として語った顔出し動画をYouTubeに投稿した(略)
なお、「二元対立の思考こそが三毒の心を生み、悪道の流転輪廻を増長させる」とは、事あるごとに取り乱す修羅・畜生の母が典型例で、他人を「バカ・絶対悪」と決めつける自他・親子の善悪・優劣の二分思考が甚だしいため、全く譲歩や妥協という、上に立つ人間の徳が見られない。


 

スッタニパータの「信仰"Saddhā"が種である」という箇所は「真摯な修行者」にとってどう解釈されるべきでしょうか?
まず経典解釈の大前提ですが、パーリ語・サンスクリット語などに詳しい人はご存知の通り、一つの言葉に多くの意味を含む語彙(Dharma, Dhammaが好例)が多く、日本語で「信仰」と翻訳された場合も、所説ごとに異なる意味を持っています。
したがって、「信仰"Saddhā" 」という言葉がパーリ仏典やその日本語訳にあったとしても、一義的ではありません。
柔軟に考えねばなりません。

「信仰が種である(Sn 77)」とは中村元センセーの現代語訳ですが、他の方の現代語訳には「信ずることが種子であり」や「信が種です」ともあります。
"Saddhā"は少なくとも、漢語の場合は「信」がキーワード、キーキャラクターとなりましょう。
原文は"Saddhā bījaṃ tapo vuṭṭhi,"です。

さて、信仰を妄信として嫌うテーラワーダ信者の場合、この箇所を「ここでの信は『理解力』」と解釈しています。
しかし、これでは"Saddhā"とある原語に反してしまいませんか?
単なる理解力では、"Saddhā"の精神性を伴いません。
信ありきの理解力、そういうつもりであれば「以信代慧」の観点では構いません。
それは"Saddhā"というよりも、中村Sn 1147に見るような"Pasīdāmi (心が澄む・浄信)"になりますが。
※この方は後年に「信仰という種とは無量心」と解釈を変更(13年6月→16年3月)していますが、ますます"Saddhā"と結びつけづらくなります。ただ精神論に傾いただけです。最初から自分の心に慈悲喜捨の種があることを信じる、と言いますが、小乗仏教などが嫌うところの仏性・如来蔵、本覚思想と同じになります。また、慈悲喜捨の四無量心に限る意味も不明瞭です。ただし、別のページ(16年1月)には後述の私と同様の解釈(Saddhā = 自分が解脱できる信念)が見られましたので不思議です。

他には、客観的・学問的にしか仏教を見れない人が「スッタニパータの4章全部と1章・5章の一部以外はニッデーサに注釈されないなどの理由で後世の創作」という学説を踏まえ、「信仰が種である」の部分を「後世の修行者が自分のシャカに対する信仰を語らせたもの」とみなしています。
こう話す人物は、当然、到底、実践的な修行などをする人ではありません(いわゆる学者サマ)。
そもそも、パーリ語の単語を吟味せずに中村センセー訳を額面通りに受け取っている点が最も惜しいところです。

さて、真摯な修行者・仏教徒の場合はどう解釈すべきでしょうか?
修行者としての信仰という精神性や、これら言語学・文献学的な見解も折衷すると一番納得がいき、また修行に資する利益がありましょうから。
ただし、あくまでも釈尊が実際に語った金言として見るべきで、「シャカに仮託した後世の創作」という見解は伝統に反するものであり、仏道修行に無用として差し置きます。

私は、この信という"Saddhā"を、同じく中村センセー訳のスッタニパータに「私には信念があり(Sn 432)"Atthi saddhā tathā viriyaṃ,"」とある「信念」に置き換えてよいかと思います。
自分が解脱している・(していない場合は)出来る、という信念の確信でしょう。
解脱、言い換えると成仏などが実現できるという信念・・・これを種と言えば、大乗仏教に「仏種」という言葉もありますので、多少は通じるはずです。
この信念という仏種が仏果に結ぶ、とまで言えばとても体系的ではありませんか?
「発菩提心」も、この信念そのものであり、仏道修行の第一歩という点で「種」と言えます。
自分が解脱・成仏(涅槃・往生など)が出来ると信じられないで修行をする人がいましょうか?
未経験だからこそ信じて求めるものです(人の世の常、煩悩即菩提)。
これらの意義が、いわゆる「自灯明・法灯明(MP経・中村センセー訳の趣意)」と端的に表されています。

あるいは過去の"Buddha (覚者)"への信仰でしょう。
ダンマパダ・法句経の「是れ諸仏の教なり」とある七仏通誡偈は広く知られます。
自身の可能性と解脱の法に加え、過去世の仏・覚者の存在も信じたほうがよいと思います。

そして、「信仰が種である」という発言が釈尊の真説でないとしても、私のように考えることができれば仏道修行において大いに資する利益・功徳は間違いなく増えることでしょう。
他に、修行者が納得しやすくて功徳を増大させる解釈はありますか?
一番良いこと・功徳があることは、こうして釈尊が仮説した教えを自分で考え抜いて納得できる見解を持ち、修行の土壌を育む結果に繋げることでしょう。
私は今、慢心も混ざっていますが、大いに功徳を感じてなりません。
だから今では、その人の修行が正しく進むならば、どのような解釈であろうと非の打ちどころはありませんが、あえて、普遍的な理解を得て普遍的に功徳をもたらす見解が私の見解以外にあろうか、と興味を持っています。



mainen01さん 2016/10/2 03:41:39
 
"Saddhā"を含む教説の解釈は、概ね質問文の通りとなりましょう。
そして、質問の最後にある通り、その修行者の道心を養う(土壌を育む)結果に繋がるならばどういう見解や解釈であっても、その人の中ではそれでよい、とある通り、この際、私から他人に強制はしません。
しかし、私のような公平であり、学術的にも正鵠を得た"Saddhā bījaṃ tapo vuṭṭhi,の"解釈は未見でありましたので、一つ念を押したく質問投稿を致しました。
ともすると日本のテーラワーダ信者は「信仰を捨てよ」という日本語訳の教説ばかりを吹聴してそれ以外の見解を受け入れず、自分で多角的に考えもしないわけですから、それこそ教条主義的であり、仏道修行者らしからぬ態度です。
よって、しっかりと広い教説を学んで自ら考え抜けば、蓋然的に私と同様の見解に至るはずです。
そうしたプロセスを経て得られた見解は、徳が高く尊いものです。

さて、上座部仏教(テーラワーダ)の信仰と神々についての論文を2016年8月15日から書き、9月11日に拙ブログへ投稿しました。
概要は以下の通りです。

1. 上座部仏教における「信仰」の定義
質問文の内容で足りそう

2. 釈尊が信仰について示した言葉
質問文の内容で足りそう

3. 実際の上座部仏教圏で行われる信仰の姿
主に在家信者向けであるが、出家者もその風潮は認めて自ら行ってもいる信仰

4. 神々を認めた釈尊
仮に認められてたとえ話に引かれたり、脇役の程度ではあるが、神自体の全否定をされることは有り得ず、慈悲・中道・言辞柔軟の方便の意義がある

5. 実際の上座部仏教圏で祀られた・造形された神や神話上の生物
タイ・カンボジア・ミャンマー・スリランカなどの例を挙げる

信仰については、仏法の深い理解があれば小乗であろうと大乗であろうと、みな修行の目的の達成のために必要なものであると分かります。
学者的な人々であっても、旧来の信仰を嫌う人々であっても、異様な固執をしたり、信仰をしない自分が尊い信仰に陥っていますが、それこそ邪信です。
正しい見解に立てば、未だ解脱せず悟りもなく、声聞の四果も得ず、菩薩の位も無いうちは自ずと信仰の必要性を知ります。
最初から解脱する気もなければ信仰はもちろん、修行も要りませんし、輪廻転生を否定しても構いません。
なぜならば既に外道であるから。
合理主義・理性万能主義・科学的見解に則る江戸時代の国学者、近代の西洋インド学・仏教学など学問があり、彼らはその外道の亜流でしかありません。

上座部仏教圏の、迷信まがいの信仰がある民間人がとても解脱に近い(諦観がある)人々には見えませんが、それでも道心ある人には「鰯の頭も信心から」という気持ちで、信仰のきっかけくらいは持ってほしいと願ってやみません。
そのまま極端な信仰に走らなければよいのですが。
「手段の目的化」はどこの世間でも弊害を生みますからね。
日頃、考え続けていれば多くの実感はあります。
だから「筏のたとえ」がパーリ経蔵(要出典)なり中阿含経(阿梨吒經)なりに見られます。
釈尊の教説、様々な信仰・・・、悟ればそれまでで私がよく言う「打ち上げロケットの燃料タンク」のように切り離します。
しかし、最初からいずれかを欠かして彼岸へ渡ることはできないものでしょう。
聴聞・信仰・実践的修行など、全ては筏の丸太や紐や帆などの必要なパーツを構成しています。
どれかを欠かして彼岸へ渡れる人は、現代人に居るはずはないと思う方が賢明ですし、少なくとも自分の中ではそう理解して堅実な修行の功徳を積むべきです。



【英語版Wikipediaを参照して】
英語版Wikipediaの「信」に関する項目に"śraddhā"の記事があります。
サンスクリット語においてパーリ語の"saddhā"に相当する単語です。
その記事では"faith, trust, confidence, and loyalty (信仰・信頼・自身・忠誠心)"と示しています。
いずれも日本語に訳すと「信」の文字が入りますが、やはり漢語も梵サンスクリット語もパーリ語もみな多義性がありますし、質問本文で引用した例や、広く教説を学ぶことで理解できます。
経典に当たる人はみな、曇無讖訳・大般涅槃経の四依の一つ「依義不依語」を理解せねばなりません。

同じく英語版Wikipedia "Faith in Buddhism"の記事では、「修行の手始めに受け入れるべき信仰」の例として質問の本題であるスッタニパータ1.4章のバーラドヴァージャ経「信仰が種」の一節を含む偈(Sn 77)の全体を引用しています。
つまり、あくまでも、日本の文献学者まがいの人が言う「コレコレこうだから、後世の修行者がシャカに仮託して追加した戯言」という見解は、取り上げない姿勢です。
なぜならば、仏道修行においては邪義・邪見であるからです。
テーラワーダの一部ではアビダルマの論文などを仏説と同様とみなして学びますし、大乗仏教でも竜樹菩薩や世親菩薩などの論文や各宗の祖師の書を経典と同等に尊ぶわけですし、修行者は須らく法の優れた教説をみな仏説として我が身に修めるべきです。
信仰も、最低限、「発菩提心」という形で持ち続けてもらいたく思います。
先に、邪信(ここで内容については言及しない)を捨てた方がよいことは当然でしょう(破邪顕正)。

ついでに、「修行の手始め」という点を言い換えると、私の論文でも「筏のたとえ」などを例に、信仰についても同様のものとすれば上座部仏教の正しい信仰であると記しました("月を指す指"、"鰯の頭も信心から")。
無論、私は大乗、それも日本的な大乗仏教に寄って依る人間ですから、そういう「現世での一手段」という理解のみを唱えると空々しいため、その立場での信仰も示しています。

私の本意は、日本の既成教団の妄信じみた信仰と、現代日本人の合理主義的な信仰嫌いの風潮とが両極端ですから、「中道」を顕示すべく質問投稿などを続けています。
例えば、仏教は完全に「無我」を説いているのでしょうか?
いいえ、龍樹菩薩ほどに釈尊の真意を識り、中道の真髄に達している人は、言語道断の理を「我・無我・非無我・非非無我」と説いて無我だけを強調することはありません。
「(生命の)輪廻転生」は、無我一辺倒の邪見を倒す、重要な教義にもなります。
また、小乗の相応部の経典(Abyākatasaṃyuttaṃ - 10)でも、釈尊は修行者にアートマンの有無(有我か無我か)を問われ、沈黙されたことが説かれています。
仏は、修行者・対告衆(説法の相手)を選んで言辞柔軟に説かれます(龍樹菩薩が中論の第18章6, 8の偈にも示している)。
時には我(アートマン)も肯定されますから、有我か無我かという、「形而上学的議論(と通称される)」二辺の執着を離れてもらいたい慈悲こそ、中道の真意です(もちろん最初から「中道なんだ!」とだけ聞いて思考放棄するのではなく自分で種々の教説を見聞する中に学んで考えぬく過程ありきの中道が尊い)。

重ねて言うまでもありませんが、だから当然、信仰が必要でしょう。
信仰一辺倒・理性一辺倒という、近現代日本人の迷妄はまさしく二辺の執着・辺見であり、解脱の道ではありません(両方を摂取する中道、人によって多少偏っても中道を志向することが大事)。
諸々の比丘は仏への敬礼・尊敬・歓喜と共に信仰も当然持っておられました(不信の者もいたろうが)。
本文の通り、完全に実感できずとも自身の解脱の可能性と、実際に解脱されたであろう釈尊・過去世の諸仏とを全て信じて当然でしょう。
日本のテーラワーダ信者に、自覚的信仰の有無はともかくただ真摯に道を進める者もいれば、「大乗・信仰・宗教(彼らいわく"本当の仏教は科学的で思弁哲学だから宗教じゃない"のだそう)」という露払いに明け暮れる者もいます。
「(合理的な仏教)日本のテーラワーダ」というスタンスならば、この際、それらの信仰を否定しようと何でも構いませんし、それまた彼らのセクト主義によって逆に彼らの布教と潜在的信仰が高まるわけですし、自由でよいと思います。



質問した人からのコメント 2016/10/2 03:49:20
あぁ毎朝2時に起きて色々な作業に当たっても時間がすぐに無くなっちゃう~
いくら時間を確保しても、たとえば食べても食べても欲求が増えるようなもの(簡潔な例示なので細かい条件などは略)で、時間に対する欲望の解決にならない現代文明の負の影響を受ける私は儚い。
こういう文章は、草案の時から1~3ヶ月も放置される。